「砂漠にさまよう舟」細谷葵 (弘文堂2013年「イエローベルトの環境史」所収)
後にトカラ人と呼ばれるトカラ語派の人々は、BC2000年以前にアルタイ山脈の東方から、天山山脈の低い峠を越えてタリーム盆地に到達した。その形跡が孔雀河沿いの鉄板河古墓や古墓溝、小河墓の遺跡で発掘されたミイラである。
(古墓溝のミイラ)は発掘当初6400年前の「美少女ミイラ」と報道されたが、これは誤りである。その後3800年前(BC1800年)と訂正された。古墓溝(北緯40度40分35秒、統計88度55分21秒)はロプノールの西方約70キロ、孔雀河北岸の第二台地にある。遺跡は42座発掘されており、古い第1類型(36座)とより新しい第2類型(6座)に区別される。いずれもコーカソイドに属するが、第1類型はアフォナシェヴオ文化、第2類型はアンドロノヴォ文化に属する。「美少女」は前者である。
(鉄板河古墓)はLAの東北、土根遺跡の西南約2キロ、ロプノールの北端に注ぐ鉄板河(孔雀河の下流)河口の北岸2キロに位置する。通称「楼蘭の美女」と呼ばれるミイラが発掘された。年齢40代前半、コーカソイドに属している。炭素14修正測定によれば、3880±95年前という数値が得られている。中国の孟凡人は、これらの人々は孔雀河下流域で原始的な農耕を行いながら定住していたとしている(「楼蘭新史」)。
(小河墓遺跡)この遺跡はかつて1935年に西北科学考査団のベイリマンによって発掘された「エルディクのネクロポリス」だが、その後戦乱などでその位置が忘れられていた。新疆ウイグル自治区文物考古研究所が2000年に再発見。2002年予備調査、2003~5年本格調査された。その後同研究所と総合地球科学研究所との日中共同研究として調査された。本論考はそのレポートである。この遺跡はLAから西に175キロ、旧タリーム河の流域標高827米に位置する。すでに盗掘された墓(190基)と手付かずの墓(167基)があった。合計350基ほどの墓が500~600年間につくられており、そのコミュニティーはそれほど大きなものでないことが予想された。墓域は胡楊材の柵で南北2区に区切られており、北区で8基、南区で139基が調査された。南区は第1期(13)、第2期(27)、第3期(23)、第4期(38)、第5期(38)の5層にわかれていた。炭素14年代測定によれば第1~3層がBC1700~1400年頃、第4~5層がBC2000~1700年頃、北はBC1950~1500年頃とされた。現時点では中国で発見された最古のミイラである。さらに分子生物学分析によるミイラの人種については、コーカソイドのみならず北アジア、中西アジア、東アジア、南アジアなどが複雑に混在することが分かった。東西交渉を示唆する東ユーラシアと西ユーラシア系譜の混在が層が新しいほど高まってゆく。BC1400年頃を境にこの辺りから人跡が消える。この人々は何処に行ったのか。
(玉の交易市場)玉(軟玉)は中国の貴石である。新石器時代から使用されていた。中国では産出されず、その産地は西域のホータンである。明確にホータン産と発表されている先秦時代の事例としては殷墟婦好墓(BC1200年)がある。玉はホータンから、敦煌地方に住んでいた月氏によって中継貿易されたものと思われる。長澤和俊によれば月氏はおそらく楼蘭で玉を中継貿易したと考えている。「寓氏(月氏)の玉」という古典の表現はその証左である。小河墓付近に住んでいた人々は玉の中継市場として孔雀河河口地帯に、敦煌地方と交易するための隊商都市を建設する必要があった。そこから400キロ離れた敦煌までは、一木一草ないロプ砂漠であり、そこはこの地方で水が得られる最後の地点である。それが「楼蘭」であり、建設の時期はBC1500年頃と推定されている。当初の「楼蘭」は玉の中継市場と隊商宿だけの小さな町であった。やがて外敵を防ぐための城壁を築き、城郭都市に成長していった。中国記録に「楼蘭」が現れるのはBC176年だが、西側の記録にはすでにBC5世紀(ヘロドトス)やBC7世紀(アクステアス)に「イセドン」の名が見える。
既述したように小河墓は謎の遺跡である。BC2000年頃から500年間に渡って使用され、そして突然その活動が停止した。現在不毛の砂漠であるこの地区は、当時タリーム河に沿って胡楊樹の森が続き、小麦が稔る緑豊かな土地であったと思われる。棺の覆いに使われた牛の皮は、大量の牛が飼育されたことを物語る。また棺の材料、木柱など相当量の胡楊樹の存在を示す。なにより「舟」型の棺そのものが、水の豊富な環境に住む人々の発想を暗示する。何故人々は消えたのか?そのヒントは遺跡から発見された「コムギ」にあると著者は考える。このコムギはDNA分析により、普通体(6倍体)のパンコムギで、他のコムギよりずばぬけて高い生産量となるが、大量の水を必要とする。基本的に乾燥地である小河墓地区は、降水量は多くない。水源から水を引く「灌漑」という人工的方法がとられることになる。水を他所から引くと、その中に含まれる塩分を持ち込むことになる。乾燥地では、水分は蒸発して、中に含まれる塩分のみ地表に残され、堆積してゆく。そして塩分が植物に取り込まれて生育をはばみ、「不毛」という結果を招くことになる。小河墓後期において、コムギ一粒の重量が減少してゆく。乾燥化に対して、より「灌漑」システムを拡大しようとする努力が、環境劣化に更に拍車をかける。そしてついに小河墓地区は放棄される。人々はこの地区から移住して新たな隊商都市、後に「楼蘭」と呼ばれる都邑を建設する。この地区の環境劣化は、人口規模の小ささもあって局地的にとどまったが、やがて千年後それはこの地区の乾燥化とあいまって、更に地域的なものになる。
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