「東大闘争の語り」 小杉亮子 新曜社 2018年
今年(2018年)は東大闘争より50年である。東大闘争はその発端である医学部闘争が1967年より始まっており、クライマックスである安田講堂攻防戦は69年1月18~9日であり、文学部のストライキは69年12月まで続いていた。然し、実際に闘争が全学的な問題になり、拡大・高揚し、ヤマ場を越えたのは、ほぼ1968年であった。この50年の節目に若い世代の著者(1982年生まれ)による「東大闘争」に関する研究書として刊行されたのが本書である。
「1968年」就中東大闘争の総括が不十分なのは著者によれば三つの要因がある。すなわち①メディアなどによる否定的な集合意識の形成、②「史観」による対立、③当事者の沈黙である。①は言うまでもなく「連赤事件」や「内ゲバ」を口実にして60年代の
学生運動を暴力的テロに帰結させるメディアの洪水のような報道である。②は「革新史観」と「市民運動史観」の相克、「民青系」と「新左翼系」の非和解的対立である。そしてなにより深刻なのが③である。一部の当事者が「沈黙」を選んできたのは、他者から求められた場合と本人の選択による場合がある。前者として船曳建夫の例がある。東大闘争に参加経験のある船越が、1983年に東大教員に採用された際、先輩教員から「東大闘争」にはふれるな、もしふれる場合は「東大紛争」といえと諭されたという。後者は山本義隆などである。山本は「東大闘争を評論家のように語るな」という廣松渉の忠告を守り続けたといえる。東大闘争については一切語ることなく(「私の1960年代」で少しふれている)、「東大闘争資料集」(国立国会図書館に納入されている)を編纂することに終始した。そして「東大闘争の総括は許されない」という神話が生まれた。
このような「総括」の不十分さが、闘争を知らない世代である小熊英二の「1968」という誤った解釈を生むことになった。つまり東大闘争を「高度成長に対する集団摩擦反応」で「アイデンティティ・クライシスに陥った<若者たちの自分探し>運動」と位置付けた。然し小熊の分析は二次資料(参加者の手記やジャーナリストの記事)にのみよるものであり、その分析視角も狭く歪んだものであった(これについては高口英茂「東大全共闘運動の総括と社会主義への展望」の厳しい批判がある)。また「オーラル・ヒストリー」を唱道する小熊に似つかわしくなく聞き取り調査をしていないのも不可解である。ともあれ、このような「沈黙」と「総括の不十分さ」が、その後の1968年世代と後継世代の断絶を生むことになった。
(「戦略的政治」と「予示的政治」)
小熊と異なって著者は闘争参加者44人の聞き取りと一次資料から、多元的な学生たちの問題意識をくみ上げ、等身大の60年代学生運動参加者像を描き出した。ちなみに44人の内訳は東大学生・院生35人、教員5人、他大学生4人である。東大生の内党派は12人(中核派1人、小野田派1人、革マル派2人、フロント派1人、ML派1人、反帝学評1人、協会派1人、民青4人)、他はノンセクトである。この聞き取りから、固定的な史観からは見えてこなかった、東大闘争参加者の「人間の顔」が浮かび上がってきた。長期間にわたる授業や研究活動のボイコット、バリケード封鎖は決して当局者が言うような「許されざる破壊行為」ではなかった。その中での議論や抗議活動の準備は、ある種の非日常性を紡いでゆく行為であり、既存の権力関係や文化に対する新しい運動原理を作り出してゆく。このような中で左翼諸党派(民青や新左翼諸党派)の「戦略的政治」に対するノンセクトラジカルの「予示的政治」が生み出される。東大闘争、全共闘運動を「近代合理主義」を批判する「予示的政治」の具体化として描き出したことに本書の意義はある。
本研究の動機として著者は、東大闘争に民青活動家として参加した父のエピソードを語る。父の全共闘批判の語気の強さ(90年代前半だから闘争から四半世紀)に疑問を持ったからだという。このような若い世代が、それが原因で東大闘争、60年代学生運動の研究に進んだのは、確かに驚きではある。全共闘運動がその時代を体験したものにしか理解できないというのは一種の蒙昧である。それでは歴史の研究や歴史学というものは成り立たない。
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