2015年1月2日金曜日

イザベラ・バード「日本奥地紀行」を読む

  「イザベラ・バードと日本の旅」 金坂清則 平凡社 2014年

 イザベラ・バードは明治11年(1878年)7ヵ月に渡ったて、当時禁断の日本の内陸を旅した英国の女性旅行家である。バードが我が国で広く知られるようになったのは、1973年の高梨健吉訳「日本奥地紀行」(平凡社 東洋文庫 以下「高梨訳本」)の刊行による。それを典拠にして加藤秀俊は「紀行を旅する」(中央公論社 1984年)で、旅行記をもってそのあとを旅するという旅行記の新しい読み方を示した。また宮本常一は「高梨訳本」をテキストとした講読会で、バードの記述を、旅を重ねてきた民俗学者の目で分析した。そしてその記述が研究の対象となりうることを示した。(「古川松軒/イザベラ・バード」未来社 1984年)
 バードの旅の目的は、西洋の影響を受けて変容しつつも、古来の日本に由来するものが何故存在するのか、それがよりよく残っている「内地」を旅することによって明らかにすることであった。然し1878年当時、外国人の日本旅行には多くの制限があった。外国人が自由な移動を認められていたのは横浜・神戸・長崎・新潟・函館の五つの開港場と二つの開市場(東京・大阪)から各々10里(40キロ)の範囲に過ぎなかった。「外国人遊歩規定」で定められた「外国人遊歩区域」は日本全体から見れば点にしか過ぎなかった。それ以外の内陸は「内地」ないし「奥地」で、いわば「禁断」の地であった。その「内地」を旅行するには「外国人旅行免状」が必要であった。それが認められた場合でも自由に旅行できたわけではない。「免状」には「旅行先及路程」などが明記され、事前にルートが定められていた。また「外国人内地旅行允準条令」では旅行期間も「三十日又は五十日」を限度とすると制限されていた。
 このような制約の中で、何故バードは自由に日本の内陸部を旅することが出きたのだろうか。それは英国公使パークスが用意した特別の内地旅行免状、「事実上何の制限もない旅行免状」によって可能になったのである。そして著者の仮説によれば、パークス公使こそがこの旅の実現を計画したプロモーターであった。その旅はルートの制限のない旅であったが、行き当たりばったりではなく、目的に従いルートを事前に設定していた旅であった。また用意万端整った旅でもある。バードは「プラトン氏の日本地図」と「サトウ氏の英語辞典」を携えたが、これらは事前にパークスが作成を命じていたものである。パークスは何故バードの旅をプロモートしたのか。それは、日本のありのままの姿を見極め、安全に旅行出来るかどうかを明らかにすることが英国にとって必要と考えたからである。バードこそが特異な変容を遂げつつある日本の目撃者としてふさわしかったのである。
 然し「高梨訳本」ではこのような事情はうかがい知れない。なんとなれば、それは「完全本」の全体を半分にした「簡訳本」に基づいているからである。「簡訳本」は「完全本」から関西方面と伊勢の旅を除いて、「旅と冒険の書物」として編纂されているのである。そして旧訳では意味不明の誤訳も散見される。例えば「裃(かみしも)」は「翼に似たうす青い羽織」などのように。これだは何のことか分からない。著者はそのため「完訳 日本奥地紀行」(平凡社 東洋文庫 2012~3年)と「新訳 日本奥地紀行」(同 2013年)を翻訳刊行した。

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