2021年2月11日木曜日

「語り継ぐ1969」 糟谷孝幸50周年プロジェクト(編) 社会評論社 2020年

 1969年11月13日大阪扇町公園において開催された全関西佐藤訪米阻止集会・デモの渦中で岡山大学生の糟谷孝幸が虐殺された。機動隊による暴行の結果翌14日に亡くなった。1967年の10・8羽田闘争の山崎博昭に続く二人目の犠牲者であった。山崎の死は70年闘争の激動の幕開けを告げる死であったが、糟谷のそれは文字通り70年闘争の弔鐘であった。然し糟谷は何故死を強制されねばならなかったのか。その原因は第一には暴行・虐殺の下手人である大阪府警寝屋川署の機動隊員3人(荒木幸男、赤松昭雄、杉山時夫)にある。そして第二には糟谷が当日その隊列に参加したプロ学同就中共労党(共産主義労働者党)の路線転換にある。    (11・3扇町闘争)     「佐藤訪米抗議11・13統一行動」には、沖縄で10万人県民集会、本土では67単産83万名の統一ストが行われた。大阪ではこの日公務員共闘6単産3万9389名、公労協2単産4314名、民間では17単産2万3519名がストで決起した。扇町公園の総評集会は17時と18時の2部に分かれて開催された。一次集会には時限ストを打った全国金属を中心に民間労働者1万5千名、二次集会にはその他の民間労組、官公労など2万名が公園を埋めていた。公園の北側には全共闘、関西地区反戦、べ平連など新左翼7千名が4時から結集していた。この日の集会は16日の現地闘争を控えての前段集会であり一大カンパニアとして実施されるはずであった。「11月決戦」用に編成された中核派などの「全共闘軍団」はすでに現地に向かっていた。然し8派のなかでもブントやプロ学同など一部党派は違った。総評の二次集会のデモ隊が出発し始めた6時30分頃、突如公園内から火炎瓶を機動隊に投げかけるのを契機に、4~500名の反戦や学生が火炎瓶・鉄棒を持って機動隊に突入した。公園南側の扇町線路上は、一時火の海となった。然し圧倒的多数の機動隊は態勢をすぐ立て直し、無差別にデモ隊に襲い掛かり、多数のケガ人、逮捕者がでた。この過程でプロ学同の隊列にいた岡山大生糟谷幸弘が重傷を負い逮捕されたのである。7時過ぎ総評系デモ隊の間に割り込む形で、地区反戦、全共闘部隊がジグザグデモで梅ヶ枝町ー淀屋橋ー肥後橋ー中郵まで行進した。梅田周辺の商店はシャッターを下ろし、機動隊は歩道橋の上で通行人を検問し、戒厳令下のようであった。大阪府警は7000人の機動隊を動員し、警戒は異様に厳しかった。集会参加者に対する私鉄・国鉄駅や公園入口での違法な所持品検査は暴力をともなう執拗なものであった。     (虐殺の真相)     このような暴力的対応は全共闘・反戦のデモ封じ込めにも続いた。扇町公園南西出口を出たデモ隊の進路を塞ぐように6大隊(17、18中隊190名)、8大隊(21,22,23中隊340名)が交差点に配置されていた。機動隊の壁の中を通らねば出発できないのだ。この壁を突破するため、公園内からの火炎瓶投擲を合図に、関西スト実・社学同の200名が投石・火炎瓶で機動隊を急襲した。続いてプロ学同50名が突撃。しかし機動隊の反撃により制圧された。プロ学同の突撃隊はまず火炎瓶を投擲した。当たりは火の海になった。機動隊がひるんで後退したスキに(大盾防御隊形を左防御隊形に移した)、鉄板棒で攻撃した。機動隊は態勢を立て直し(大盾防御隊形)、直ちに増員して反撃。学生達は扇町線を水道局方向に逃げた。それを追撃して、「殺せ!殺せ!」と絶叫しながら警棒と盾を振りかざして殴る、蹴る、突き倒すの暴行を加え、60名余を逮捕した。逮捕を免れた者も40名が重軽傷を負った。糟谷もこの時逮捕された。3人の機動隊員は糟谷のヘルメットをはがし、警棒で左側側頭部に致命的な打撃を加えた。とくに直接の下手人荒木の警棒には糟谷と同じ血液型の血が付着していた。糟谷は頭蓋骨陥没骨折の重傷を負ったまま徒歩で曽根崎署まで連行され、取り調べ中に「黙秘します」とだけ言って倒れた。翌日行岡病院で死亡した。警棒で機動隊の襲撃は後続の関西大学の学生部隊にも加えられた。2名が重傷を負い、その後遺症で苦しみ1年後死亡した。            (共労党の路線転換)   民学同(民主主義学生同盟)は共労党系(構造改革派)と日本の声系(ソ連派)からなる学生組織であった。共労党系は同盟内分派として「民学同左派」を名乗るようになった。構改諸派(フロント、共学同)と「自治会共闘会議」を結成(67年10月)して学生戦線の統一を目指した。その基調は平和共存と反独占であり、民青や「トロ諸派」(三派、革マル)とは一線を画していた。然し68年の激動は構改諸派に左傾を促した。民学同左派も69年3月27日の民学同9回大会で構造改革路線の廃棄を宣言し、翌日プロ学同を結成した。ヘルメットを白から緑に塗り替えた。共労党も「平和共存と反独占民主主義を通じた社会主義革命」を投げ捨て、「現代世界革命派」を自称し(69年5月 3回大会)、最後の新左翼党派になった。ブントの「マッセンストと中央権力闘争」に煽られて、「一周遅れのトップランナー」の揶揄を後目に、11月佐藤訪米阻止闘争を拠点スト(山猫スト)と地域的街頭反乱の大衆的実力闘争(武装闘争)として闘うという方針を打ち出した。それを牽引する「政治的権力奪取の意識性に貫かれた突出集団」=突撃隊の編成が要請された。  糟谷はその突撃隊に「志願」したのである。糟谷のノートには「ぜひ11・13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。」(11月8日)と記されている。本書を企画刊行した内藤秀之(当時青井秀之)の強いオルグによって二人で扇町に向かった。プロ学同岡大支部は10・21闘争(東京)で逮捕者(5名)があり、救対責任者を除いて同盟員は青井ただ一人だったのである。大言壮語と裏腹に共労党が用意したのは鉄板棒(幅32ミリ、厚さ6ミリ、長さ130センチ)と火炎瓶(栄養ドリンク容器)という貧弱な「武器」である。こんな武装で機動隊の壁を突破できるはずもない。      プロ学同はその後、ヘルメットの色を赤に変えた。その色は糟谷が流した血の色だともいう。共労党は71年に三分解した。左派の赤色戦線と中間派のプロ青同、そして構造改革派に先祖帰りした右派の労働者党である。赤色戦線は間もなく消滅。労働者党も地方の議会政党になった。中間派のプロ青同派が共労党として残った。そして71年9月16日プロ青同とブント(叛旗派)は三里塚東峰十字路の戦闘で機動隊堀田大隊(神奈川県警)の柴田小隊を撃破し3名の機動隊員を殲滅した。78年3月26日には、プロ青同・ブント(戦旗派)・第四インターの赤ヘル三派は成田空港管制塔を占拠して空港開港を阻止した。「春秋」の筆法で言えば、「等価報復」により糟谷ら3名の血債を償わせ、大衆的実力闘争の爆発により11・13扇町闘争の恥を拭いさったのである。 青井は、岡山大医学部を辞め、日本原へ行き、自衛隊との闘いに身を投じた。その過程で地元農民の内藤家の婿養子となり、以後牛飼いの内藤秀之として50年間自衛隊に反対する活動に取り組んでいる。50年間、糟谷の分まで生きてきたのである 一方糟谷を死に至らしめた下手人の三名の警官はどうなったか。彼らは特別公務員暴行陵虐致死で告発された(1969年12月13日)が、76年10月20日大阪高裁は抗告棄却を決定した。同年11月13日時効が成立した。彼らはその責任を他県の機動隊員の死に転嫁し、卑怯にも生き延びた。そればかりか、そのうち一名は2018年秋に危険業務従事者(大阪府警元警部)として叙勲(瑞宝単光章)を受けている。危険業務とは11・13扇町公園警備事案に関するものである。

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