2020年11月29日日曜日
関学闘争外伝④~経済学部学生運動小史Ⅲ
(6項目闘争の崩壊~小宮院長辞任から6・9王子集会まで)
3月5日の大衆団交を確約した確認書は3月2日の小宮委員長の学長代理辞任(院長辞任は3月3日)で一片の反故となった。それだけでなく大学評議会の全評議員も辞任した。全共闘は交渉すべき相手=「敵」を見失ってしまった。大衆運動のピークは普通は1週間から10日間しか続かない。然し6項目闘争の熱狂は1・24全学集会から1か月も続いている。その原因は2/9~10の5G別館の30時間を超える攻防戦の衝撃的な影響である。5G死守闘争の巨大な成果が闘争の質を転化した(教育闘争から政治闘争)と全共闘指導部は信じたが、そこには陥穽があった。なによりもこの時全共闘の組織力は破断界に直面していた。逮捕者は68人(入試阻止20、5G35、法本館13)にも上っていた。封鎖した建物は多く(守備要員がいる)、当局のロックアウト措置で登校する学生もめっきり減っていた。そして5G死守闘争は、今後全共闘指導部のとるべき闘争方針の幅を極めて狭く拘束していた。
3月全共闘は各学部教授会の追求と卒業試験阻止に忙殺される。法闘委(反帝学評)は法教授会との大衆団交で「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書(25名署名)を勝ち取った。同日理闘委も団交を要求したが、教授会は拒否。10日に理学部校舎を封鎖。13日社会学部の卒業試験が神戸YMCAで実施され、社闘委が抗議デモ。経済学部では。公認自治会が存在する法・理学部とことなり、団交要求もできない。14日卒業試験が大阪予備校で実施される。受験生は中之島公会堂に集合し、教員の案内で内部を通り抜け、淀屋橋から三々五々に地下鉄で難波に向かうというもの。これには経闘委も対応できない。学院当局の新執行部もなかなか決まらない。当局の無能さということもあるが、全共闘に対する目くらましでもあった。それでも19日小寺学長代行がようやく決まる(22日城崎学長代行代理)。そして全学生に「廃校か否か」という半ば恫喝的なアンケートを配布する。これに呼応するよに右翼系の蠢動も活発化する。同日商学部の右翼学生が「学内正常化のため」の学部集会を大阪プール(扇町)で開催する(200名)。22日には革新評議会など右翼、OB,教職員など1200人が「正常化集会」を学内で開催しようとするが、全共闘行動隊(200人)が粉砕。新執行部の「廃校か否か」という恫喝アンケート全学性配布には全共闘指導部は明確に対応できない。いわば全共闘大衆や学生を無方針状態に曝しているのだ。この闘争の敗北過程は「民主的教授会」の自己解体とともに並行的に進んだ。叛旗派の神津陽が言うように、それは全共闘世代を含むその後の大学教員の思想的壁となった。その後教員はいかに大学改革を語ろうと、高邁な学問を教えても、政治的・社会的批判を述べても、この「壁」を乗り越えることなくして説得力を持てなくなった。
経済学部では4月18日新入生のオリエンテーションを実施した。参加した新入生は588名(入学手続きしたのは718名、参加には宣誓書提出が義務付けられた)である。当日9時に大阪城豊国神社(機動隊宿舎前)に集合。経闘委30人が抗議に来るが阻止できない。バス12台に分乗し、市内をカモフラージュのため走行し、この時点では行く先は明らかにされない。奈良県の信貴山千手院に到着したのは11時30分。13時よりオリエンテーションが開始され、当分上ヶ原キヤンパスでの授業再開のメドが立たないため、自宅学習の指示がなされた。終了したのは16時30分。ちなみに他の学部も法学部以外全て実施された。4月17日社会学部(神戸海員会館)、4月30日商学部(関西汽船で洋上)、5月8日文学部(大阪厚生年金会館)、5月9日神学部(大阪・福島教会)、5月16~7日理学部(高野山)。こうして新年度のスタートが既成事実化されていった。全共闘としての一致した方針は定まらない。政治闘争に活路を見出そうとする部分。4・28闘争には東京派遣20名。前段の26集会(神戸・京都)には100名。4月27日の社学外試験(三田市)阻止には50名。
6項目闘争は実質的には終わり、全共闘は6・9王子集会に向けて惰性的に敗北過程を歩んでいた。「廃校か否か」というアンケートと同様、この「改革結集集会」にも全共闘指導部は適格な対応方針を提起できなかった。王子競技場で集会を開催するという学院側の意図は次の二点である。まず第一に学院発祥の地「原田の森」に隣接していること。学院ナショナリズムを煽ってOBなども結集(右翼も含む)できる。第二にスタジアムは構造上の問題。集会参加者はグランドより高い(2米くらい)スダンドに厳重な検問(会場周辺には機動隊1600人)を経て入ることになる。従って集会を物理的に粉砕することは不可能である。この会場選定はOBの公安担当県議が入れ知恵した。全共闘は400人でグランドに突入し抗議の座りこみ。スタンドよりグランドに飛び降り呼応する学生は200人弱。1時50分に退去命令が出され、機動隊がグランドに突入排除にかかった。逃げ場のない学生24名が逮捕された。当日スダンドを埋めた学生、教職員、OB、右翼など9000人。集会は全共闘を締め出したまま、討論なしの提案、協力呼びかけで進行、大勢は拍手での支持という無内容で1時間で終わった。一部から「ナンセンス」のヤジはとんだが動員された右翼の威圧で大勢とはならなかった。会場外に逃れた全共闘は市電筋で群衆1000人とともにバリケードを築き市街戦を演じたが、流れ解散した。全共闘最後の雄姿ではあった。(この項続く)
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