2015年12月9日水曜日

華北駐屯軍とは何か~昭和史の謎を追う⑪

   「華北駐屯日本軍」 櫻井良樹 岩波書店 2015年

 盧溝橋事件発端の原因となり、日中全面戦争の口火をきった華北駐屯日本軍。何故そこに日本軍がいたのか。駐屯軍成立の事情、その後の変遷、、終焉など「平和維持のための軍隊」が「戦うための軍隊」に変貌するさまを、本書は余すところなく解き明かす。
 (駐屯軍の成立)華北駐屯軍は中国に継続的に駐屯する条約上の根拠を持った唯一の外国軍であった。その成立の根拠は義和団事件後の北京議定書(1901年9月7日)による。駐兵権の規定はその第7条と第9条である。第7条1項で北京の天安門南東に位置する東交民巷の北京公使館区域を、外国公使館が使用する区域とし、清国人の居住を認めない地域とした。租界と同様の特権が与えられた。第2項によって規定された常時(設置)護衛兵に防御された。第9条は鉄道保護に関するもので、次の各地を占領(駐兵)する権利を認めた。黄村、郎房、楊村、天津、軍糧城、
塘沽、蘆台、唐山、灤州、昌黎、秦王島及び山海関である。調印国は日本、イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、ドイツ、イタリア、オーストリア、ベルギー、スペイン、オランダの11ヵ国である。然し実際に駐屯したのは日、英、米、仏、露、独、伊、墺の8国(のち独、墺、露は撤退した)である。
(議定兵力)北京公使館2000人(うち日本300人)、天津6000人(同1400人)、北京~海岸間鉄道2700人(同600人)である。鉄道守備の区分けは日本(昌黎、濼州)、英(唐山、蘆台)、仏(塘沽、軍糧城)、独(楊村、郎房)、伊(黄村)。日本の議定兵力は2600名であった。これは目安であって実数とは異なる。義和団事件後の占領期が終わった清国駐屯日本軍は1400人(歩兵8個中隊、騎兵隊、砲兵中隊)の陣容であった。
そして駐屯軍は以下のような性格を合わせもっていた。①公使館・領事館保護及び外国人保護を基本勤務とするほか、避難路や情報・通信を反故するため鉄道線路上への駐兵が認められていたこと。②北京議定書は、単なる清国と列強間の講和条約ではなく、列強の中国大陸における行動を規制する側面をもった国際協定であるということ。したがって列強駐屯軍に共同指揮権を設けることは忌避されたが、その行動は北京の公使団会議や天津の軍司令官会議の強い影響を受けていた。
 このような駐屯軍による「国際処理体制」はその後約30年近く続いた。辛亥革命や内戦(安直戦争、奉直戦争)の危機に対してはその都度臨時造兵で乗り切った。然し1920年代後半の北伐にともなう内戦の激化は、列強に駐屯軍の大幅増加か撤退を迫りつつあった。英国はすでに沿線警備から召喚しつつあった。山海関・秦王島(1925年)、豊台(1926年)から撤退していた。仏国も楊村(1926年か翌年)から撤退している。僻地に小部隊を駐兵するのは危険であったからである。1920年代の中国ナショナリズムは、まだ日本だけを対象としたものではなかった。それ故かろうじて列強駐屯軍は協調することが出来た。
(転換点としての第2次山東出兵)「済南事件」(1928年5月3日)で最初に北伐軍と衝突した部隊は天津駐屯軍の一部(3個中隊と機関銃隊)であった。ここから任務外の行動(任務の拡大)と兵力のなしくずしの増加が始まった。すなわち第2次山東出兵により日本軍は6000人となった。それまでは議定兵力の上限を意識していたが、それを拘束と見なくなる動きが一挙に進んだ。そして北京~海浜間の自由行動の維持という条約上の権利=任務を分担して共同で行うことが放棄されたのである。独自の行動を深める日本駐屯軍と儀礼的な役割しか果たせない列国駐屯軍。かくして駐屯軍のみならず北京外交団の機能も低下した。いみじくも中国国民党政府の王正廷外交部長は「公使団を単なる社交機関としては認めるが政治活動をなす団体としては認められない」(1930年7月9日)と言明した。外交部も「今まで黙認してきたが今後は絶対に認めない」と補足した。
(1936年の大増強)1936年広田内閣は駐屯軍を大幅増強した。それまでの歩兵10個中隊1771人を一挙に3倍の5774人に増加した。司令官を親補職の中将に格上げし、部隊を1年交代から永駐制とした。歩兵2個連隊に砲兵連隊、戦車中隊、騎兵中隊、工兵中隊を加えた特別旅団編成とした。天津には軍司令部と第2連隊(うち1個大隊は山海関)、北平(北京)には旅団司令部と第1連隊。その1個大隊は英国の撤退した豊台に駐屯した。かくして駐屯軍は任務以外の任務(華北分離工作)を行う軍となり、戦争の尖兵(盧溝橋事件)となったのである。
(その後の駐屯軍)戦うための軍隊に変貌した駐屯軍は1937年8月末日中戦争の本格化とともに廃止された。北支那方面軍に組み込まれた二つの連隊は天津租界の消滅にともない天津を去った(1943年7月)。また英国は1940年8月5日全面撤兵を声明し、18日より撤兵を開始した。
米国は1941年11月25日以降撤兵を開始したが、一部兵員が太平洋戦争開戦の12月8日に日本軍の捕虜となった。
 戦うための軍隊に変貌し、平和維持のための任務を果たすことが出来なかった「駐屯軍」。然し駐屯軍創設から40年におけるこの変貌は必然的なものではなかった。「他国に軍隊が駐留し、さまざまなことに直面した時、当初の任務とは別の役割が期待されるようになり、一歩対応を誤れば、矛先はその軍隊に向けられ、それがまた駐屯軍を変貌させていく」(本書P262)と著者は指摘するのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿