「関西学院新聞」1965~1967年
60年安保闘争時関学の学生運動は、全学連主流派(ブント)ではなく、全学連反主流派(日共系)全自連の翼下にあった。6月18日の全自連の全国集会(東京)には14名を代表派遣している。全自連多数派(構造改革派)は日共中央とは独自にフロント組織の拡大につとめていた。60年8月頃から「平和と民主主義を守る大学戦線」として全国的組織化を進めていた。関学でも10月26日に25名で関学フロントが結成されている。そして28日神戸大学住吉寮で100名(関学より5名)が参加してフロント兵庫結成大会が開催されている。この当時のフロントはまだ日共内の分派(構改派)であったが、61年日共神戸大細胞の集団離党を皮切りに新左翼への道を歩み始める。61年末までに400人(2000人中)の学生党員が離党し、全自連・再建協はその首脳部が去ったため崩壊状態に陥る。その多くが神戸大など兵庫県の学生であった。そのため62年10月の兵庫県学連大会(10/25~26)はフロント系と日共系の対立に終始し、県原水協(日共系)非難決議を採択する。その後崩壊状態に陥るが、65年構改派を中心に再建される(13回大会9月19日)。神戸大中執、関学文、社の代議員47名(定足数38名)、オブザーバーとして関学法、商、経済、甲南大、神戸医大、神戸女学院などが参加した。加盟校にもかかわらず神戸商大・神戸外大(日共系)はボイコットした。(関西学院新聞1965年9月19日)この時期関学の学生運動の主流は兵庫県学連に結集して日韓闘争など政治課題を戦っていた。これに対して日共系は「全学連」(64年12月民青系自治会のみせ結成)参加を掲げてセクト的分裂策動を繰り返していた。関学学生運動の主流は反日共ではあるが、翌年結成される「三派全学連」とも別個なところで構改派学生運動(自治会共闘)の流れにあった。これが大きな特徴である。
(薬学部設置反対闘争)1966年篠山の兵庫農科大学跡地をめぐる反対運動が関学内で急速に浮上してきた。理事会は跡地払下げを受けて薬学部設置を検討していた。そして6月18日父兄会代議員会での父兄会費値上げ決定が反対運動の発火点となった。11/11,14と2次にわたる「父兄会費値上げ・薬学部設置に関する」公聴会(説明会)は全学執行委員会側と大学当局の物別れに終わった。全執は全学闘争会議を設置して闘争態勢を構築した。11月末の全学投票では90.5%の学生が反対していた。12月6日社会、法自治会がストライキに突入した。8日には文、商、経済学部自治会がスト権を確立した。
「関西学院の薬学部設置に反対している同大学学生会全学執行委員会(石田委員長)の社会学部、法学部の2学部は、同構想の白紙撤回を要求して6日始業時より3日間のストに突入した。(中略)経済、商学部など残りの学部自治会も現在スト権の確立を急いでおり、8日ごろには全学部の足並みがそろうことになる。」(神戸新聞1966年12月6日夕刊)然し学院当局は12月7日緊急理事会を開き、「学生・教授の理解が得られない」として「薬学部設置」案を撤回した。
「関西学院では兵庫県多紀郡篠山町の兵庫農大跡地を買収、薬学部を新設する構想を進めていたが、7日の緊急理事会で同構想の白紙撤回を決定した。(中略)6日から社会、法学部がストにはいり、さらに文、商、経済の3学部が7日スト権を確立、8日からストを強化することになっていたが、理事会の白紙撤回の”表明”で7日夜ストを中止した。」(神戸新聞66年12月8日)この当時学内はまだ中央集権化されておらず、各学部教授会は「既存学部充実」で一致しており、薬学部設置には反対していた。
かくして薬学部設置反対闘争は一定の「勝利」を勝ち取った。然しそれは学院当局側の「敵失」による「勝利」であり、全学闘指導部の方針は問題を残した。高揚した学生のエネルギーを集約できなかった。「既存学部充実、経済第一主義的教学方針ナンセンス」というかたちでしか闘争にとりくめず、教育総点検運動のような次元に終始した。闘争(ストライキなど)を圧力手段として、教授層の反対をうながし、当局に譲歩を迫るというものでしかなかった。これはフロント派の「大学革新論」につながるもので、なんら「大学幻想共同体」に対する物質的批判たりえなかった。そのような限界は「43学費闘争」でたちまち露呈する。(この項続く)
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