2015年4月30日木曜日

「証言 連合赤軍」を読む

   「証言 連合赤軍」 連合赤軍事件の全体像を残す会編 皓星社 2013年

 「連合赤軍事件の全体像を残す会」が2004年より発行してきた小冊子「証言 連合赤軍」が膨大な関係者へのインタビュウーなどを再編集して刊行されたのが本書である。本書の「証言」には貴重で興味深い記述もある。 たとえば「世界同時革命論」のブント赤軍派と「一国革命論」の革命左派の連合たる連合赤軍は異質の集団の野合と一般には思われていた。然し本書を忠実に読めば両者は同根の組織から派生したことがわかる。とくに豊浦清の証言は謎に満ちた革命左派誕生の秘密を明らかにして貴重である。
 60年安保後、機能停止した社学同は1962年9月再建大会(味岡委員長)を開催した。然し翌63年10月にはマル戦派と反マル戦のML派に分裂した。このML派内の多数派(さらぎ派)は独立派(65年3月)、関西派(65年7月)と社学同統一派を結成した。残ったML派は後にML同盟(68年10月)を結成する。この新ML派から66年6月ころ「警鐘派」が分離した。河北三男(社学同ML派委員長)によって密かにフラクを作り、なんら公開的な路線論争もすることなく機関紙「警鐘」を発刊した。この河北の手口が、後の革命左派の陰湿なイメージを決定づける第一の根拠となった。この時期、中国文化大革命の影響もあり、ML派、警鐘派は次第に毛沢東路線に近づいた。68年3月警鐘派は神奈川県の日共左派グループと日共神奈川県委員会左派(準)を結成した。日共の地下活動時代のスタイルを習得するなどし、これが警鐘派の第二の転機になった。その後69年4月、日共左派との統一を解消して、革命左派(日共神奈川県委員会革命左派)を名のるようになった。この時点で革命左派の指導権は河北より川島豪(元マル戦派)に移っていたという。革命左派は中共派のイメージが強いが、出生はれっきとしたブントである。
 塩見孝也インタビュー(90年3月10日)中の三戸部貴司(元三派全学連書記局員)の発言も興味深い。「本来なら社青同解放派でいえば山本浩司とか高橋孝吉かな、あの当時三派全学連を形成していた、あるいは成島忠夫とか成島道官とか、あの連中、あるいは中核だったら吉羽忠とか秋山勝行とか、そのへんのレベルがね、各党派それぞれ出てきて、被告を支援するという意味じゃなくて、連赤裁判全体をある程度みていくことが必要だったと思う。連赤は新左翼運動の鬼っ子だから、当然の帰結であったかもしれないわけでね。」(本書P408)成島忠夫はその後参加している。ブント系は各派閥の元領袖は三上治(叛旗派)、荒岱介(戦旗派)などほとんど「会」に参加している。参加していないのは山内昌之(戦旗派)くらいだ。
 革命左派の雪野健作によれば山岳アジトの日常は「食べ物はあまりまともなものがなくて、お金がなかったので、押し麦を炊いて、ラーメン等は非常にご馳走の類に入るという生活」と回想される。たまに日中友好商社からカンパが入ると「中国製のアヒルの缶詰、サバの缶詰、ザーサイをぶち込んだ雑炊」に歓声が上がったという。然し赤軍派の植垣康博には、こういうメニューは「粗食に耐える」という精神主義が濃くなったと思える。革命左派と赤軍派の体質の違いがうかがえる。然しなんという貧しさだろうか。現在ほど豊でないにしろ、当時は昭和元禄の時代である。やはりこういう記述に出会うと胸がつまる。

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