「蒋介石の密使 辻政信」 渡辺望 祥伝社新書 2013年
1961年(昭和36年)4月21日朝ビェンチャンの西北端からルアンプラバンに至る13号公路を北に歩く黄褐色の衣を着た日本人僧侶がいた。元陸軍参謀の参議院議員辻政信である。北方5キロにはパテト・ラオ陣地に案内してくれるラオス人僧侶が待っている。この出立を見送ったのは金城辰夫(駐ラオス大使館員)と赤坂勝美(東京銀行ビェンチャン支店)の二人である。辻が目撃された最後であり、その後杳として行方が知れない。辻は参議院に公用旅券発給を請求し、インドシナ視察(4月4日~5月15日 南ベトナム、カンボジア、タイ、ラオス、ビルマ)と称していたが、実はラオスから北ベトナムへの潜行を企てていたという。現職の国会議員の身でありながら、何故再び「潜行三千里」ルートの潜行なのか。ビェンチャンからジャール平原に潜入し、北ベトナムのハノイに行き、ホーチミンにベトナム戦争をやめさせるよう説得するというのである。
その後の辻の足跡は断片的な証言などから、わずかにたどれる。
①辻を案内したラオス僧は4~5日して帰ってきた。辻をパテト・ラオの部隊に預け、その後護衛 つきで奥地にむかったという。(赤坂証言)
②中国人難民によれば辻はバンビエン(ビェンチャン北方120キロ)で6月7日頃までに数回目撃されている。(外務省稲田繁東南アジア課長)
③辻はバンビエンからアントノフ機でジャール平原のカンカイに向かった。辻のパスポートを確認し、通行証にサインした。(中立派フェン・フォンサバン内相証言 サンケイ新聞野田衛記者)
④辻はカンカイでパテト・ラオに軟禁された。華僑の楊光宇によれば6月中旬から下旬の20日間である。
⑤辻は6月のある日パテト・ラオの指導者スファヌボン殿下と会見している。夫人に真珠のネックレスを進呈している。(サンケイ新聞野田特派員)
ここで辻の足取りは途絶える。
然し2005年に公開されたCIAファイル(「CIA日本人ファイル 第12巻」現代史料出版 2014年)はCIAが辻について調査した驚くべき情報を明らかにした。なんと辻は蒋介石のスパイになることと引き換えに戦犯を免罪されたというのだ。そして著者は本書では、辻は戦後スパイになったのではなく、戦時中からそうであったと推論する。シンガポールの華僑虐殺など悪行はその最もな「手土産」であったとする。
さらにCIAファイルは辻の「失踪」の新事実も明らかにする。辻はカンカイから雲南共産党の手引き(拉致)で北京に行き、10日間ほどの滞在期間中、中国共産党幹部に接触している。中共は辻を思想改造したあと、エージェントとして利用し、党の東南アジア戦略企画部長のポストを与えようとしていた。だが思想改造の段階になって、辻と共産党の間に致命的な齟齬が生じたという。中共の思想改造の過酷さは、辻が知る日本憲兵隊の比ではない。辻が耐えられるはずもない。客人から囚人に転落したのだという。著者はCIA文書の「改造」という言葉にひっかかるという。何故「齟齬」が起きたのか。それは共産党の思想改造の過酷さだけではない。国府のスパイであると同時に、CIAファイルが決して明らかに出来ないこと、すなわちCIAのエージェントであることが露見したからではないのか。そして辻の運命は決まったのである。
1969年6月28日東京家裁は辻政信に1968年7月20日付の死亡宣告を出した。
0 件のコメント:
コメントを投稿