2015年4月13日月曜日

「ビルマ・ハイウェイ」を読む

   「ビルマ・ハイウェイ」 タンミュウー  白水社  2013年

 中国雲南省の西部からビルマ北部を経由してインドのアッサム州に至る地域は、ほとんど通行不可能なジャングル、死に至るマラリヤの猛威、猛獣、横断山脈による険しい地形によって人間の侵入をこばんできた。紀元前122年、前漢の武帝は中国から南西にぬけてインドに達する「幻のルート」を探るべく特別使節団を派遣した。現在の四川省を出発し、ようやく昆明のあたり(滇王国)に着いたが、そこから先は蛮族に阻まれて目的を達することが出来なかった。以来二千年、日中戦争中の「援蒋ルート」まで話題にもならなかった。然し近年中国から、広大な内陸部をインドにつなごうという構想が出てきた。(ベンガル湾からビルマを横断して中国に至る天然ガスパイプラインは2013年に完成した。)インドも東方政策をとり、ビルマ経由で古くからの極東との関係を強化しようとしている。第二次大戦中連合軍が造ったスティウェル公路を再び開通させようという案まである。現在この地域には1億5千万人が暮らす。その隣のバングラディシュと西ベンガル州には2億3千万人。反対の中国の四川盆地は8千万人、重慶特別市には3千万人がいる。この地域から入るアジアは、いわば「裏口から入るアジア」だと著者はいう。著者は何を見たのだろうか。
 (東部国境では)1989年ビルマ共産党が崩壊した。コーカンの町にいた部隊が漢人の司令官彭家声に率いられて謀反をおこしたのが発端である。彭は麻薬取引に関わっており、マルキストというより傭兵に近かった。謀反は数日中に広がり、共産党本部を占拠した。ビルマ軍はアヘン王ローシンハらの協力をえて、すべての共産党反乱軍組織との間で停戦協定を結んだ。そして共産党反乱軍は「ミャンマー民族民主同盟軍(MNDA)]に再編された。停戦協定から20年後の2009年8月「コーカン事件」が起きた。ビルマ軍はコーカンに侵入、2万人の難民が中国側に逃げ込んだ。コーカンはビルマ国境、瑞麗から東数十キロのところにある漢人の集落である。住民はすべて、中国地域から入ってきた開拓民と盗賊の子孫である。
 (西部国境では)アッサム解放統一戦線(ULFA 1979年設立)は1980年代、東方の反乱組織と接触するようになった。就中ビルマのカチン民族独立軍(KIA)は武器を提供し訓練を助けた。ULFAはマンダレーから北東に400キロ離れたビルマ軍の支配の及ばない丘陵地帯に基地を置いている。中国人やワ人からなる密輸業者のネットワークが雲南やワ州連合軍地域から武器を持ち込んでいる。ULFAの最高司令官パレシュ・バルアはビルマ・雲南国境のどこか、瑞麗にいるといわれている。ULFAともう一つの有力な反政府組織ナガランド民族社会主義評議会(イサークムィヴァ派)は2011年インド政府と和平交渉を開始した。
「長らくインドと中国を隔てていたかつての辺境は消えかかり、その変わり国と国が出会う新しい交差点が生まれようとしている」(本書P346)と著者には見えた。
 著者はビルマ人のビルマ史専門家で、かつての国連事務総長ウ・タントは祖父にあたる。ティンセイン大統領の諮問評議会の評議員で、現在進行中の自由改革の主流にいる人物である。欧米の経済制裁が解除され、投資や開発援助が進めば貧困が削減して中産階級が増え、民主政府の基盤ができる。また少数民族との対話が進み、辺境地域での武力紛争が終わると主張する。(本書の原書が刊行されたのは2011年の初秋である。)著者の予想は当たったのか。政治体制・経済の分野では周知のとおり大きな前進があった。然し一方新たな紛争の火種もおこっている。今年(2015年)2月9日にはシャン州コーカン地区でMNDAとビルマ軍との戦闘で150人以上の死者がでている。さらに2月13日ビルマ軍機の爆弾が雲南省臨倉市に着弾し、中国人4人が死亡するなどし、中国ービルマ関係は悪化している。

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