「東西ウイグルと中央ユーラシア」 森安孝夫 名古屋大学出版会 2015年
かつての「シルクロード史観」論争にあえて「喧嘩を買って出た」森安孝夫の論文集が出版された。著者は「シルクロード」という術語と概念について、自らは「論争」の一方の当事者であったので、論争の経過に関するレファランスを挙げるだけに留めるとしている。そして間野英二の自著「シルクロードと唐帝国」に対する書評が「一方的で生産的でない」ので、具体的反論をおこなわず、「審判は第三者および後学に委ねる」と述べている。然し「シルクロード」の定義を次のようにしている。シルクロードを線ではなく、シルクロードネットワークで覆われた地域とみなし、前近代という時代性を持った「シルクロード世界」として提唱している。すなわち「シルクロード世界とは前近代中央ユーラスア世界のことである」と。
(論争の経緯)「論争」の経緯を簡単に振り返ってみよう。間野は1977年「中央アジアの歴史」で所謂「シルクロード史観」を批判した。日本の中央アジア研究は、シルクロードの東西交通を重視する立場であり、かつ中国西域経営史に他ならない。然し現地史料によれば、中央アジア住民にとって東西交通や中国は関心外であり、それについての記述は皆無であるとし、「シルクロード」という概念に疑問を呈した。これを正面から批判したのが護雅夫(「草原とオアシス」1984年)である。然しこの批判を間野が黙殺したため、「論争」は継続せず、すれちがいで終わった。その後森安が「シルクロードと唐帝国」(2007年)で現地史料の解読により、間野が否定した「オアシス商人」の存在を確認できたと反論した。これに対し間野は書評(「『シルクロード史観』再考」2008年)で森安を反批判した。然しその内容は①「シルクロード」という術語を研究論文で使用することには賛成しないが、その他は自由である②イスラム化強調については、地域によって状況が異なるとややトーダウンした。
(何故「論争」は起きたのか)1960年代末から、マスコミなどの安易な「シルクロードブーム」とそれに加担する一部の史学者に対する不満が中央アジア研究者の中に徐々に高まっていた。間野が直接批判の対象としたのは松田寿男の論考であったが、本当に批判したかったのは長澤和俊である。当時長澤は中央アジア踏査や、多くの「シルクロード」関係著作の出版などタレント教授として脚光を浴びていた。「シルクロード」などの表題のついた一般書を出す長澤は、マスコミに迎合する最もたる者と思われ、かつ松田の門下でもあった。それに対する批判は学術論文では不適当であり、一般書である新書版「中央アジアの歴史」での批判となったのである。「論争」はいわば屈折した形で始まった。このように「論争」は多分に表層的、感情的な原因が発端になったのであり、深化すべくもなかた。間野の反論がトークダウンする所以である。
(審判の行方)森安のいう「第三者」たる吉田豊は「シルクロードという言葉を使うことに対する一連の批判には傾聴すべき点も多い」と留保をつけながら以下のように述べている。すなわち現地史料が希薄なイスラム化およびモンゴル以前の中央アジア研究と、史料が豊富になるそれ以降とでは研究対象が本来異質である。後者からの批判は必ずしも適当ではない。東西交渉のメインルートが海洋に移るまでは、中央アジアの交通路は世界史的意義があった。「前近代の内陸路としての『シルクロード』という概念の有効性を勘案すれば、学問的にこれを利用する手立て」を考えるべきだとしている。(吉田豊「ソグド人の交易活動の実態」)いずれにしても「論争」があぶり出したのは「史観」派・批判派を問わず論者たちそれぞれの立場の困難さであった。例えば長澤和俊の場合については続稿で検討する。
ともあれ本書所収の森安の諸論文については、第一編の「ウイグルから見た安史の乱」、「西蔵語諸史料中に現われたる北方民族」、「吐蕃の中央アジア進出」、「増補ウイグルと吐蕃の北庭争奪戦及びその後の西域情勢」などは「シルクロードと唐帝国」の下敷きになった重要な論考である。とくに「増補」などはそれなりに面白いが、やや古さを感じさせる。かつての「大宛国貴山城」論争を思わせる。これを間野は「30年前の研究視角」と感じたのかもしれない。
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