2015年10月9日金曜日

長澤和俊の「変節」~古書の宝庫を訪ねてみれば⑧

     「チベット~極奥アジアの歴史と文化」 長澤和俊 校倉書房 1964年

 「シルクロード博士」としてマスコミで華やかな脚光を浴びた長澤和俊に本書「チベット」の著書があることを知る人は少ない。1928年(昭和3年)生まれの長澤は理工系の学校を卒業した後史学
を志した。1948年早稲田大学第二文学部に入学し、1957年同大学院博士課程を修了した。理系出身らしく明晰でかつ流麗な文章で書かれた「シルクロード」(1962年)、「楼蘭王国」(1963年)などの著作は多くのファンを持った。その長澤が「チベット」を書いたのは何故か。「あとがき」によれば、津田左右吉より中央アジア研究にとってチベットの重要さを指摘されたからだという。そして直接的には大村謙太郎より「西蔵大蔵経」刊行の付録としてチベット史の概説を依頼されたことが動機になった。1957年に西蔵大蔵経研究会より刊行された「ティベット史概説」は大村の著者名になっているが、長澤の草稿を大村が校訂したものである。この「概説」が本人名義で本書を執筆する基礎となった。
 本書の構成はプロローグとAチベットの社会と文化、Bチベット史概説、Cチベット現代史の3部からなっている。Bは「ティベット史概説」(以下「概説」)をそのまま踏襲している。章立ても同様である。すなわち①チベットの開国伝説、②チベットの古代、③吐蕃王国、④分裂時代、⑤ダライラマ王国の成立と発展、⑥チベットの近代、は「概説」の3章から8章までにそのまま相当する。内容は旧稿に負っているが、その後の研究を取り入れてやや詳しくなっている。ダライラマとパンチェラマの関係や、中国の宗主権問題、中印国境問題などは詳述されている。Aは著者の西部ネパール学術調査(1963年)における、西ネパール北部に住むチベット人の民俗学的考察に裏付けられて、「概説」よりはるかに豊富な内容になっている。
  Cは「概説」にはなく新たに書き加えられた部分で、本書のハイライトである。「概説」刊行後、1959年ラサでチベット動乱が勃発し、ダライラマがインドに蒙塵したことによる。著者は「チベットの動乱や中印国境問題は、いずれも歴史的に深い根源を持つものであって、その解明には多くの努力を払った」(P291)としている。そして動乱の原因は①1912年のダライラマ13世のチベット独立宣言と②1914年あいまいに終わったシムラ会談(中国側は「チベット問題草案」調印を拒否、然し「草案」には中国の宗主権は明記されている)にあるという。「動乱」に対し全自由主義国は「第二のハンガリー事件」として「中共のチベット侵略」を非難したが、著者は中共のとった政策は国際法上、不当でも非合法でもないとする。そして「今回のチベット動乱によって、ダライラマ以下の封建勢力がインドに亡命した結果、土地や農奴の解放がおこなわれたことは、チベット史全体からみても一つの進歩が認められる」(P277)ともいう。然しながら疑問点もあるとする。すなわち①宗主権の確認がすべて軍事力によって裏付けられていること、②動乱は必ずしも特権階級が特権擁護のため武装蜂起したものではなく、チベット民族独立運動の意欲が見えるとする。
 長澤は初期の著作「シルクロード」(校倉書房1962年、同増補版1975年、講談社学術文庫1998年)、「楼蘭王国」(角川新書1963年、レグルス文庫1976年、徳間文庫1988年)、「敦煌」(筑摩グリーンベルト1965年、レグルス文庫1974年、徳間文庫1987年)などは度々改訂版を刊行している。自説の変化した部分や研究水準の進んだ部分を取り入れるなどしている。講談社版の「シルクロード」などはほとんど面目を一新している。その長澤が何故本書を絶版同様にしているのか。専門でもないチベット現代史を書くことに限界を感じたということもある。更に重要なのは状況の変化である。日中国交回復(1972年)以前なら、何を書こうと、少々筆がすべろうと問題はなかった。シルクロード(タリーム盆地)調査など夢にしかすぎなかったが、以降は全く違う。楼蘭遺趾探訪(1988年)やニヤ遺跡踏査(1980年)をひかえていた早稲田大学教授長澤和俊にとって、本書は極めて「危険」な書であったに違いない。チベットは中国の核心的利益そのものである。「シルクロード史観」論争で述べた東西交渉史や中国西域経営史の立場に立つ論者の「危うさ」とはいみじくもこれである。つくづく本書の改訂版がでなかったことが惜しまれる。

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