「チベット 謀略と冒険の史劇」 倉知敬 社会評論社 2017年
本書には、20世紀後半の知らざれチベットに関する未邦訳の書籍が紹介されている。その中で最も興味深いのがジョージ・N・パターソンの「Tibetan Journey(1953年)」である。パターソンは1920年スコットランド生まれのプリマス・ブレスレン派教会の宣教師である。1947年上海に行き、揚子江を遡りチベットとの国境の町康定(タ・チェン・ル)にたどりつく。カンパ族のリーダートプギャイと知り合い、ポミの町に移る。おりしも中国共産党政権のチベット侵攻前夜であり、それに対するカンパ族の抗争計画をラサ政府に伝えるべく困難な旅路につく。ラサへの通常の交易ルートをとれば4か月を要する。東南チベットを抜けてインドのサディヤへ出るルートは急げば2か月。そこからシッキムのカリンポンを経てラサへは数日で行ける。パターソンが辿ったルートはこの知られている中国からインドへの道より、さらに最短のルートである。以下紹介しよう。
1950年1月7日パターソンはポミを出立した。金沙江を渡り、幾つか峠を越え、森林限界の雪道や熱帯のように熱い低地を通って、5千米の草原を行き23日芒康(マルカム 3860米)に着いた。ここで休養し、2月1日出発。メコン川を渡河し対岸のサンバ・ドルカに至る(2月2日)。3日山を登りジョ村(3910米)に着く。4日山を二つ越えてツカワ・チョルテン村に至る。5千米の森林限界で野営し、氷原を経て6日ドラユ・ゴンパに到着する。ここで2日間休養する。8日クリ村に至る。9日地滑りで崩れかかった山道通ってタンシュ・ドルカ村に着く。この日サルウィン川を渡河する。10日急な数時間の登りでドラシン村を経て、峠を越えてドゼア村に至る。11日ルツ族の村ズリを経て、ノエ村に到着する。ここがカンパ族の勢力範囲の境界である。したがって人足・動物の使役供与はここで終わる。12日短い行程でナクシュ村に着く。13日雪のナクシュ・ドリ峠(4870米)を越える。行路中の最難所である。ミジという夏だけの村に着く。14日ロヒト川沿いの高巻き道を通って森林地帯を抜ける。分水嶺を越えプラマプトラ水系に入る。キガシ村(20軒ほど)に宿営する。15日ツァチュン村に至る。16日ザユール(察偶)地区のシガ・タン(チベット名はリマ)に到着する。ロンゴ川とツァンポ川の合流点である。17日はチベット正月でこの町に滞在する。サマ村と野営の2泊を経て、20日ワロンに着く。ザユールとワロンの間にチベットとインドの国境がある。24日までワロンに滞在し、インド駐在官にサディヤ経由カルカッタへの旅行手続きをする。ここでキングトン・ウォード夫妻に出会う。27日チョンウィンティンに至る。ここで日記が1日ずれていることを指摘される。その日は27日であった。3月5日サディヤに到着する。サディヤはプラマプトラ氾濫原の北に位置している。プラマプトラ川にはフェリーがある。パターソンの行程は、伝統的な中国からインドへ抜けるルートとは違う。パターソンの方がより最短路である。知られているルートは、金沙江を越えて、メコン川に達し、玉曲(サルウイン支流)を経由して、サルウイン河畔の門空に至り、イラワジ川源流を越えてロヒト川のドロワ・ゴンパに抜けるものであった。ベイリー大尉(1911年)や中村保(2003年)が踏査したルートであった。これは伝説のルートであった。然しパターソンは、それよりも更に短くドロワ・ゴンパに達する現地人のみが知るルートを辿ったのである。西洋人としては初めてであり、わずかにパンディトのAKが通ったことが知られているのみである。
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