2017年5月14日日曜日

「シナ」とは何か

   「逆転の大中国史」 楊海英 文藝春秋社 2016年

 英語の「チャイナ(China)」に対応する日本語の名称は「シナ(支那)」だが、この語は現在日本では使用が忌避難される。それはかつてのGHQの命令や過剰な自主規制による。それではこの名称は何に由来するのか。始皇帝の「秦」の古音「ヅィン」がインドで「チーナ」となり、ペルシア語では「チーン」となり、アラビア語で「スィーン」となった。インドを訪れたポルトガル人が、この「チーナ」を持ち帰ったと推測される。「チーナ」が英語で「チャイナ」、フランス語で「シーヌ」となった。「シナ」は他称であり、漢人は自国をその時代の王朝名で呼んでいた。例えば「漢」や「唐」などと。新井白石が日本に潜入したイタリア人宣教師シドッチから「チーナ」の名を聞き、それを「支那」と表記した。それ以来日本では「中国」を「シナ」と呼んだ。
 一方ヨーロッパでは「シナ」は最初「カセイ(Cathay)」という名称で知られていた。それはシナ北方地域のみに適用されるはずのものであったが、やがてシナ全域を指すようになった。この名称の起源は契丹(キタイ)民族に由来する。彼らは数世紀にわたってシナの東北方に割拠し、やがて北シナを占領し遼帝国を建国した。これによって、内陸から見てシナのことを「カタイ」と呼ぶようになった。そしてこの名称をヨーロッパに紹介したのはマルコポーロである。その後ヨーロッパでは、南廻りで宣教師が赴いた北京のある「シナ」と「カタイ」は別のものと考えられていた。これを同一のものと確証したのはベネディクト・ゴエスである。
(「シナ人」とは)
 岡田英弘によれば「シナ」とはBC221年秦の始皇帝による統一以降の名称で、それは1895年日清戦争敗北まで続いた。それ以前は「シナ以前の時代」であった。雑多な種族が接触して商業都市文明をつくりだした時代である。伝説上の最初の王朝「夏」は水路伝いに都市文明を黄河流域にもたらした。タイ系の「夷」の王朝で、その都市は秦嶺山脈南麓の、水路の船着き場にある。次の「殷」は黄河の北方から南下してきた東北の狩猟民「狄」の王朝である。「殷」を滅ぼした「周」は山西高原南部の汾河渓谷にいた「西戎」の一種たる羌族の王朝である。南方にいた「楚」は「南蛮」の王国である。この時代、これらの「東夷」「南蛮」「西戎」「北狄」の諸王朝が洛陽盆地をめぐり覇権を競っていたのである。「シナ人」=「漢人」とは、これら諸族が混交して形成された都市の住民のことである。人種的には「夷」「蛮」「戎」「狄」の子孫である。都市に住み着き(戸籍に登録し、納税・徴兵の義務を負う)、「漢語」を話し、規定された服装をすれば、それは「漢人」である。都市と都市の中間地帯は夷狄の住地であった。
(「漢語」とは)
 「漢語」の起源とはどのようなものであろうか。漢字が発生したのは長江流域である。この地方で話されていたのはタイ系の言語であった。漢字は表意文字の宿命で、同じ字形に幾通りかの意味をあてて、それをタイ系の言語で読んだ。後に整理して、一つの漢字には一通り、一音節の語をあてて読むようになった。然し、いかにタイ系の語であっても、すべての語が一音節からなるということはありえない。このため、漢字の音は、意味を表すというより、その字の名前という性格になった。漢字の実際の使用法は、人々が話す言葉の構造と関係なく、ある簡単な原則に従って排列するようになる。表意文字であるから、言語を異にする人々の間の通信手段として使えるようになる。このまったく新しい人工的な符号が「雅言」である。かくして漢字は、それを作り出した種族の日常言語と遊離することによって、他の種族にとっても有効な通信手段となった。漢字の組み合わせを順次読み下す「雅言」には性、数、格も時称もない。これは漢語が、夏人の言語をベースにして、アルタイ系、チベット系、ビルマ系の言語を取り入れて成立した都市国家の共通語=マーケットランゲージであり、ピジン風言語であることを意味している。
  以上が岡田英弘による「シナ」成立の経緯である。ここまでは大方の賛同を得ているといえる。然しそこから導きだされる①急激な人口減(前漢時代6千万人が三国時代には5百万に減少)による漢人の実質的消滅と②空白になった華北平原にアルタイ系胡族が移動し、その結果漢語のアルタイ語化(二重子音が消滅し、頭子音「r」が「L]に変化)が起こったなどは学界では少数説にしか過ぎない。この岡田説をふまえた本書の内容には特段目新しいものはない。だが著者がモンゴル人(内モンゴルのオルドス高原生まれ モンゴル名オーノス・チョクト)ということを考えればリアリティーがある。モンゴル高原から南を眺めれば、右に中央アジアなどユーラシアが、左手かなたには「シナ」が望める。「中原」と呼ばれる洛陽盆地のなんと小さいことか。そして遊牧文明の視点から見れば「中国文明」と言われるものはローカル文明の一つにしか過ぎない。中国4千年の歴史というが、「漢族」の歴史は漢王朝(400年)、北宋(160年)、明(300年)の計900年にもみたない。著者は、「漢族」であるといわれる漢、宋、明などの創始者の出自も実は怪しいという。然し疑問もある。例えばモンゴルでも「中国」を「シナ」と呼んでいたという件である。既述したようにモンゴルでは歴史的に「中国」は「カタイ」と呼ばれていた。「シナ」と呼ばれていたとすれば、それは日本軍進出(蒙疆政権時)の影響にほかならない。

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