2020年9月28日月曜日
関学闘争外伝②~経済学部学生運動小史Ⅰ
「関西学院経済学部50年史」 関西学院大学経済学部50年史編纂委員会 1984年
「50年史」はその1部6章「大学紛争と改革期」と4部資料「大学紛争関係」を1969年の6項目闘争闘争に割いている。このボリュウムは学部当局のこの闘争に対する衝撃の大きさを現している。然しあらゆる事件や出来事にはかならずその前史や後史がある。6か月に及ぶ全学バリケード封鎖闘争は突如起きたのではない。60年代から70年代初頭の関学経済学部の学生運動の状況を簡潔に素描してみよう。
(前史①60~65年 安保闘争から日韓条約反対闘争まで)
関学の学生運動は60年安保闘争時、全学連主流派(ブンド)ではなく反主流派(日共系)の全自連の影響下にあった。東京の6・18集会にも14名の代表団を反主流派の集会に派遣している。全自連内の多数派(構造改革派)は8月頃から「平和と社会主義を守る大学戦線」(フロント)を各大学に組織し始めた。関学でも10月26日に25名で関学フロントが結成された。そして10月28日には神戸大住吉寮で100名が参加しフロント兵庫大会が開催されている。この当時のフロントはまだ日共内の「分派」であったが、61年8月の神戸大日共細胞の集団離党をかわきりに、新左翼への道を歩み始めた。61年末には400人(2000名中)の学生党員が離党した。全自連、全学連再建協議会はその幹部が去ったため崩壊状態に陥った。そのため日共は民青同盟員のみでの学生の組織化(62年8月平民学連結成、64年12月「全学連」結成)を与儀なくされた。関学でも文学部を中心にフロントが多数であったが、経済学部は民青の力が強く経済学会(自治会)を掌握していた。
62年10月の兵庫県学連大会では両派の対立は非和解的に激化した。関学でも11・16県学連統一行動に向けての集会が分裂して行われた。全学執行委員会、文自治会、社自治会、法学会、商学会共催の250人参加の集会に対し、経済学会(柏原委員長)は学館ホールでの映画会(30数人)という分裂集会を対置し、別個に県学連集会に参加した。そして遂に学外行動でも分裂は決定的になった。12・14統一行動では全執など多数派は大阪(府学連集会)へ、経済学会は神戸の兵庫安保共闘県民大会にそれぞれ参加した。関学新聞は「13日に行われた戦術会議で『労働者とともに闘おう』とする経済学会と他学会との意見が対立、16日と同様分裂したもの」(「関学新聞」62年12月15日)と論評している。そして翌63年の6・15原潜寄港阻止闘争(神戸)は関西3府県学連3500人が参加(関学250人)したが経済学会は闘争放棄した。「現在の学生運動は分裂主義者、修正主義者によてって指導されており誤ったものだ。6・15闘争は機動隊とのマサツを目的とし、原子力潜水艦寄港反対のデモではない」(「同63年7月15日)11月に成立した経済学会の岩田執行部(民青系)は、準備の立ち遅れを理由に学費値上げ反対闘争に水を差した。スト権投票が2/3に61票満たない(総数849、賛成505、反対331、白票6、無効7)として授業総辞退でお茶を濁した。文、社、法はスト権を確立した。これに対して学部生の不満が噴出し、民青系執行部不信任が決議され(64年6月12日)、解散した(64年9月19日)。経済学会の新執行部(阪野委員長、反民青系)は11・12原潜寄港阻止全関西学生総決起集会(神戸)に結集(3府県学連6000人、関学600人)、12月1日の学生大会で平民学連からの離脱を決議した。日共との対立で前年来崩壊状態であった兵庫県学連が65年9月19日フロント派を中心に再建された(13回大会 小寺山委員長)。然し経済学会の委員長選挙(クラス委員会での間接選挙)ではわずか3票差でフロント系を破り民青系執行部(前田委員長)が誕生した。前田委員長は県学連は認めておらず、統一行動には参加できず「全学連(民青系)」を支持するとした。(65年11月11日委員集会)
(前史②66年~68年 薬学部設置反対闘争から43学費闘争まで)
66年篠山の兵庫農業大学跡地をめぐる反対運動が学内で急速に浮上してきた。理事会は跡地払い下げを受けて薬学部設置を検討していた。そんなおり経済学会では9月21,2の両日初めての直接選挙制で委員長選挙の投票が行われた。「大学革新」のフロント系(久松昭一742票)が民青系(小山たけし411票)、革マル系(安長学77票)を抑えて大差で当選した。2次にわたる「父兄会費値上げ・薬学部設置に関する」公聴会(説明会)は物別れに終わった。11月末の全学投票では90.5%が反対していた。全執はただちに全学闘争委員会を組織しストライキ体制を構築した。12月6日社、法学部がストに突入し、文、商、経の3学部もスト権を確立した。当局は7日の理事会で「学生、教授の理解が得られない」として薬学部設置案を撤回した。この当時はまだ学内機構が中央主権化されておらず、各学部教授会も「既存学部充実」で薬学部設置に反対していた。反対闘争は一定の勝利を勝ち取ったが、全学闘の指導方針は問題を残した。「既存学部充実、経営第一主義的教学方針反対」という形でしか闘争をとりくめず、教育総点検運動の次元に矮小化された。闘争(ストライキなど)を圧力手段として、教授層の反対をうながし、当局に譲歩を迫るというものでしかなかった。
一方学外では新三派連合(マル学同中核派、社学同統一派、社青同解放派)に2派(社学同ML派、社青同国際主義派)を加えて、反帝を一致点にした第3の全学連が再建された。(12月17~19日 35大学71自治会代議員・オブザーバー1800人)関学からも法学会が参加した(遠野前委員長は中執に就任)。三派全学連は砂川闘争と取り組みを通じて影響力を全国的に拡大した。然し関学では依然として構改派の影響力が強かった。ただ前年の薬学部闘争の指導力不足から、67年度自治会選挙ではフロント派は苦戦した。とくに経、文では批判票が民青系に流れ敗北した。4月経済学会選では民青系(川尻修520票)が革マル系(安長学305票)を破り当選した。県学連との統一行動拒否し、学内・学外闘争の障害になった。この時点での関学自治会の党派地図は全執(フロント)、社(フロント)、法(社青同解放派)、商(青年インター)、文(民青)、経(民青)であった。
薬学部問題で一旦譲歩した学院当局は中央集権的な常務会を設置し、11月22日に68,69年連続学費値上げを発表した。これに対し学生側は全学共闘会議を結成し、2次の公聴会で大衆団交要求したが、当局は拒否。ただちに法、商、社、文、経の5学部でスト権確立投票を実施した。4学部(文学部では民青系執行部の逃亡を乗り越えて文闘委が主導)はストに突入したが経済学部は違った。投票率53.4%、スト支持率61.9%という法学部に続く多数の指示を得ながら、スト権は批准されなかった。全共闘では、原則として「投票率1/2、支持率1/2でスト権を確立する」として確認がとれていたにもかかわらず、経済学会執行部だけが「多数の支持者がいない限り、ストはできない」と「支持率2/3」に固執し事実上闘争をボイコットしたのである。反対闘争は2000名規模の学生を動員し高揚したが、年明けの試験期とともにストは解除された(商1/17、文1/25、法1/27)。社は教授会の自治会解散命令の恫喝をはねのけ踏ん張ったが、孤立し2/26に解除された。そして学院当局はこの闘争に対して26名の大量処分を発表した(3/26)。全共闘は3/28卒業式に介入し、学院本部を占拠し抗議闘争を展開した。然し右翼系学生との衝突を理由に機動隊が導入され排除された。全共闘は学内ではこの日初めてヘルメット着用で登場した。後日全共闘指導部7名(1名は誤認)が逮捕された。かくして43学費闘争は敗北した。構改派の「大学革新論」はすでに大衆の自然発生性に対応できない「時代遅れ」になっていた。
(この項続く)
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