「『新左翼』運動の位相」 廣松渉 中央公論1969年9月号
総合雑誌「中央公論」の特集「現代世界の思想状況」は、その好評にもかかわらず3回(最終は1969年1月)で中断した。その最大の理由は東大安田講堂攻防戦と69年4・28闘争における新左翼運動の敗北である。日本の新左翼運動は68年の東大・日大闘争と10・21新宿闘争をピークに躍進した。然し「安田ショック」は全共闘運動のうねりを一瞬凍りつかせた。その後全共闘運動は関西に飛び火したが、4・28闘争の不発は新左翼運動の行く末に不吉な影を落とした。かかる状況下で、中央公論編集者が次に着目したのが廣松渉である。
廣松渉(1933~94)は当時名古屋大学の哲学担当助教授(学生の闘争を支持し70年3月辞任)。「ドイツ・イデオロギー」のテキスト・クリティークで高い評価を受けていた。とくにアドラツキー版は改竄に近い編集がされており、ほとんど偽書に近いことを暴露した。これは学者として不朽の文献学的業績であるのみならず、政治的闘争でもあった。革命マル派や社青同解放派の「疎外革命論」に対する批判でもあった。廣松は16歳で日本共産党に入党するなどの早熟のコミュニストであった。旧「国際派」に所属し、「九州独立運動」構想(九州「反米独立臨時政府」)を画策した。ブントには加盟しなかったが、周辺で支援していた。その後第2次ブントの再建には協力し、イデオローグの一人と目されていた。社学同の機関誌「理論戦線」8号(1969年3月)には批判的に摂取すべき文献として「共同幻想論」(吉本隆明)とともに廣松の「マルクス主義の成立過程」や「エンゲルス論」が挙げられている。また雑誌「情況」の創刊(1968年)には100万円を寄付した。この「政治好き」が後に「大ブント構想」の騒動を引き起こすことになる。
中央公論編集者が廣松に依頼したのが本論考(政治論文は筆名門松暁鐘だが、廣松名)である。廣松は1969年を、マルクス主義における第2回目の危機と考えた。第1回目は正統派(ドイツ社民党、カウッキー)と修正主義(ベルンシュタイン)の相克。それはレーニンによって克服された。今回は「平和共存主義」(構改ソ連派)と「プロレタリア国際主義」(中共派)の相克。その中から分派した新左翼諸党派が乱立。新左翼の流動化はかつてのチンメルブァルト派を思わせる。現在をマルクス主義の第2段階から第3段階への跳躍場面ととらえた。そしてその課題を「武装大衆反乱型革命論」の模索とし、全共闘のノンセクトラジカルに期待を寄せた。全共闘運動に対しては「全世界的規模での構造的位相転換の歪み」がもたらしたものととらえた。全共闘が問い返したのは、大学制度の問題や戦後の価値規範(民主主義や現体制)ではなく、近代合理主義の地平そのものだとした。本論考は「マルクス主義の地平」とともにいくつかの大学のサークルで読まれた。関学の「近代合理主義研究会」でも学習会のテキストとして使用された。70年闘争、就中11月闘争を戦う道標として。
然しその廣松理論も70年に入るとリアリティーを失ってゆく。「ブントと構改派の理論的対立が止揚されつつある」という楽天的な認識は「大ブント構想」として革マル派に揶揄される。それはフロントが機関紙「平和と社会主義」を「戦旗」をもじった「先駆」に改題したり、プロ学同が緑ヘルを赤に塗り替えたに過ぎない。それどころかこの構想が独り歩きすると、第2次ブントとめどない分裂過程に入ることになる。
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