「第三の眼~秘境チベットに生まれて 」ロブサン・ランバ 光文社 1957年
今から60年ほど前の1956年、本書のオリジナル「THE THIRD EYE」がロンドンのセッカー&ワーパーク社から出版され話題を呼んだ。その後10ヵ国以上で翻訳され世界的ベストセラーになった。日本でも翌年邦訳され10万部を記録した。著者はチベット貴族出身の亡命ラマ僧と称するロブサン・ランバ。その数奇な経歴と、知らざれるチベットの奇習の数々が読書界の話題をさらった。一例をあげれば麻酔なしの第三の眼開眼手術やミイラ作り、大ダコに乗っての空中歩行、テレパシーなどのラマ教の秘術等々。然し当初からチベット滞在経験があった多田等観らは、奇抜な内容に疑義を呈していた。果せるかな、その後外電は、ロブサンは詐欺師で生粋の英国人で、チベットはおろか外国へも行ったことがないと伝えた。
ロブサンの正体はシリル・ヘンリー・ホプキンズという英国人である。当時47才。ブリキ職人の息子に生まれ、ロンドンで職業訓練学校の簿記係を務めていたが、1947年「啓示」を受けて別の人格になったと称していた。名前をクアン・スミス博士と変え、ロンドンの骨董街ケンジントンで、チベット出土と称する骨董品を売買する店舗を構えていた。その顧客に怪しげな予言や奇跡医療を施すまでになっていた。そして次のように宣っていた。「私は心ならずも自分の名を変えた。英国人としての私の生涯の記憶は消え失せた・・・・軽い事故があって、脳震盪を起こしていたのである。(中略)記憶はことごとく消え失せていた。その代わりに私は、チベット人としての自分の生活を幼年時代からはっきりと記憶にとどめているのだった・・・・私の肉体はある真物のラマ僧の霊に憑かれたのだ」
本書は正真正銘の偽書である。偽書とは記述内容に誤りがあるものをいうのではなく、作者名を偽っているものをさす。それは偽作の意図とは関係がない。記述内容に信憑性があれば偽書でないというのは錯覚に過ぎない。本書が読者を、そのような錯覚に誘うのは、チベットの奇習に関する記述の故である。ホプキンスはこのようなチベットの奇習をどこから仕入れたのか。本書中にそのヒントがある。第13章「第三の眼を用いて」の中に「チャールス・ベル」という項目がある。ベルは言わずと知れたチベット学者で、ダライ・ラマ13世の信頼厚い英国外交官である。その3部作「西蔵 過去と現在」(1924年)、「チベットの人々」(1928年)、「チベットの宗教」(1931年)が最大の情報源である。「西蔵」のみ邦訳(生活社1940年)があり、近年復刻版(慧文社2009年)が出ている。他は未邦訳である。河口慧海の「西蔵旅行記」の英訳(1909年)も利用している。またマルコ・パリス(当時の英国駐ギリシャ大使)の著書「高僧とラマ僧たち」(1930年)からの剽窃箇所が甚だしいとして、厳重に抗議されている。あまつさえパリスは私立探偵クリフォードに調査を依頼した。ロブサンの正体露見はこの探偵の手柄である。
本書のような偽書が大手ふって流通するのは、チベットが当時も半鎖国状態であったからである。その後状況はやや緩和され、その「需要」は減った。本書も忘れ去られた。1974年講談社から新訳(白井正夫訳)が「偽書」と注記して刊行されたのみである。然し、現在のように「チベット自治区」の政治的秘境化がさらに進めば、本書が亡霊のように甦るかもしれない。
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