2025年11月11日火曜日

楼蘭研究の現段階

「日本における楼蘭研究100年 」伊藤敏雄 歴史研究54 2017年3月


 1900年スウェン・ヘデインによって楼蘭遺跡が発見された。翌年の再調査による出土資料の「楼蘭」の文字から、それが「史記」大宛伝の伝える楼蘭の都城であることが明らかになった。日本における楼蘭研究はその直後の1920年代から始まった。それから100年に及ぶ研究の歩みを著者は5期に区分して整理し、研究の到達点と課題を述べている。本論考は掲載誌(「歴史研究」54 大阪教育大学)が一般読者にはやや利用しにくいこともあり、以下その要旨を紹介し、楼蘭研究の現段階を検証する。

(研究史の概要)

①黎明期(1910年代~50年代)この時期の特徴は国都の位置をめぐる論争として始まったことである。スタインに触発された藤田豊八は国都(伊循城)をチャルクリック、扞泥城をミーランに比定した(1924)。南方説である。これに対し大谷勝鎮は国都の南遷を説き、楼蘭故城から扞泥城(アブダン)へ遷り、さらに伊循城(ミーラン)に遷ったとした(1933)。南遷説である。また松田寿男も「漢書」西域伝の里程を分析し、その中で楼蘭と鄯善の位置を別にし(1956)、後に南遷説を唱える(1963)基礎を築いた。

②興隆期(1960年代)この時期榎一雄、長澤和俊によるカローシュティ文書を用いた研究が進んだ。榎は文書中のクロライナが楼蘭で、クロライナ=クヴァニ(扞泥城)=マハムタ・ナガラ(大都市)とし、国都扞泥城を楼蘭故城に比定した(1961,63,65,66)。また文書の年代を3世紀後半~4世紀と推定した。その後アムゴーカ王の17年を283年と推定し、5世紀頭まで楼蘭(LA)が国都であると修正した(1967)。また1963年日本で初めて楼蘭に関する概説書が刊行された。長澤「楼蘭王国」とヘルマン(松田寿男訳・解説)「楼蘭」である。前者は楼蘭故城(LA)を扞泥城に比定し、終始LAが国都であったとする北方説を主張する。後者は松田が詳細な解説を付し、楼蘭から扞泥城に南遷したとし、扞泥城をミーラン、伊循城をチャルクリックに比定する南遷説である。長澤は松田の弟子にあたるが、子弟が北方説、南遷説に分かれた。ともあれ良書は一般向け概説書ではあるが、内容が豊富で、日本における楼蘭研究の基礎になった。

③発展期(1970年代)この時期長澤の精力的な研究が学界をリードした。「魏晋楼蘭屯戊攷」(1975)で魏晋楼蘭屯戊の時期と官制を考察し、更に魏の屯戊は222年に設置され、晋は魏の屯戊を継承したとする(1977)。これは出土漢文文字資料を本格的に用いた初めてのもので注目された。またカローシュティ文書の研究から、2世紀後半にクシャン朝移民団の征服による第二鄯善王朝建国を唱えた。魏の西域経営は222年から始まり、228年から魏の勢力が決定的に鄯善に及んだとし、5人の王の時代を203~288/90年と推定した。

④展開期(1980年代~90年代前半)この時期の特徴は研究者の増大と研究の緻密化・深化である。まず1988年朝日新聞・テレビ朝日主催の日中共同楼蘭探検隊の成果である。参加して楼蘭故城を訪問した長澤・伊藤敏雄は経過・成果を紹介した。伊藤は楼蘭故城は漢代の遺跡ではないという中国側の見解を重視するが、長澤は否定的である。この年、黄文弼の「ロプノール考古記」(田川純三訳)が刊行された。出土漢文文字資料の研究では候燦(1984)や伊藤(1983)などをもとに長澤は自説を大幅に修正・増補して屯戊の実体を整理した(1990,91)。カローシュティ文書のについては、長澤以外山本光郎が取り組んだ。「漢書」西域伝中の「寄田仰穀」について考察し(1984)、鄯善王国に関する歴史的・民族的問題を概観した(1990)。また李柏文書の出土地については、片山章雄がLA説を提唱(1988)し、ほぼ決着した。

⑤新展開期(1990年代後半~)海外諸機関との共同調査が進展した。2006年からの地球研と新疆文物研究所の小河墓共同調査で、小河墓地域の自然環境の変遷を追求した。王炳華の「滄桑楼蘭」の邦訳「楼蘭~幻のオアシス」(2007)が刊行されたが、その成果が反映されている。また井ノ口泰淳らサンスクリット学者による、バローの英訳によらないカロシュティー文書の研究が進んだ。赤松明彦はその研究の現状と課題を整理して、「扞泥」をクロライナ(楼蘭)とする根拠はないとした。赤松の「楼蘭王国」(2005)は最も新しい概説書である。出土漢文文字資料の研究も進展した。梅原郁は長澤の「楼蘭=LA=扞泥城=鄯善の王都」説を否定した(2001)。伊藤は国都に関する3説(北方説、南方説、南遷説)を検討・整理し、前漢の西域都護設置後か後漢前期に楼蘭地区から若羗地区に遷ったとする南遷説を主張した(2008)。衛星写真を利用した考古学的研究も登場した。相馬秀廣は衛星写真を新疆自治区の地理環境の研究に用いた。伊藤・相馬は于志勇の研究をふまえLE故城が伊循城である可能性を強調した(2014)。伊藤は楼蘭の滅亡について、若羌地区と楼蘭地区に分けて考察することを提唱した(2014)。前者はは北魏の征服後、遊牧民の攻撃・支配により住民が離散し廃墟化した。後者は国都南遷後、戦略的重要性が低下し駐屯軍が派遣されなくなり荒廃したとする(2013)。

(研究の到達点と課題)

伊藤は以下のように整理する。

①国都の位置について研究は出尽くした。北方説は否定されたが、南遷説か南方説の確定には、今後の新たな考古学的発見が待たれる。

②楼蘭の滅亡について考察法(2地区に分ける)は示されたが、史料・考古学的成果が不足し、研究の進展は望みにくい。

③李柏文書の出土地についてはLAで結着。

④カローシュティ文書については、1990年代後半原文を用いた研究が進展したが、2008年以降研究が減少している。

⑤出土漢文文字資料を用いた研究は長澤(1975)以降展開され、1990年代以降進展しつつある。今後古文書学的研究をふまえた文字資料の利用が課題となる。

⑥日中共同ニヤ遺跡学術調査(1988年開始)や海外諸機関との共同研究が展開されているが、その進展が期待される。

(解決されたものともちこされたもの)

 以上伊藤の「日本における楼蘭研究100年」の概要をやや詳しく紹介した。李柏文書出土地のように結着がついたものや、出土漢文文字資料研究、海外諸機関との共同研究など今後の成果に期待できるものもある。然し楼蘭の滅亡についての伊藤の見解は現段階では推測の域を出ない。またカローシュティ文書の取り扱いについては要注意である。この文書はあくまで「2~4世紀の文書」という限界性がある。したがって著者の北方説の否定には疑義が残る。国都問題は南遷説がやや有力ではあるが、結着は持ち越されたというべきである。   ともあれ本論文は、わが国における100年に及ぶ楼蘭研究の全容を要領よくまとめており、とくに巻末の詳細な註記は今後の研究者の手引き、研究の基礎となるものである。また一般読者にもおおいに参考となり有益である。



 







2025年3月30日日曜日

新疆ウイグル自治区の現在

    「新疆ウイグル自治区」熊倉潤 中公新書 2022年

 旧ソ連領の中央アジア(ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、カザフスタン各共和国)が「西トルキスタン」と呼ばれるのに対し、新疆ウイグル自治区はかつて「東トルキスタン」」と呼ばれらた。然し、この名称は現在中国では禁句になっている。中国内でこの語を使用することは、中国からから分離・独立を求める国家反逆罪とみなされ極めて危険である。なぜ「東トルキスタン」という名称が禁句となったのか。

 中国で「西域」と呼ばれたこの地方にはBC3千年頃からから印欧語族の一派であるトハラ語族の人々が移住してオアシスに住み着いていた。「楼蘭の美女」として知られる白色人種の人々である。そして9世紀モンゴル高原に覇を唱えた東ウイグル可汗国の人々が、キルギスに圧迫されて天山北麓に移り、ウイグル王国を成立させた。ほぼ「西域」を掌握した。このテュルク系の人々がオアシスを支配下に置き、元からの白色人種と混交し、「西域」のテュルク化が進行した。そして10世紀以降イスラム化も進行した。そ結果、以降この地は「東トルキスタン」と呼称されるようになった。

 中国がタリム盆地を直接支配下に置くようになったのは、ようやく清朝の乾隆帝時代の1759年である。然し、圧倒的に多数のウイグルに少数の漢人。中国の新疆統治は容易ではなかった。清は間接統治であったが、後継の中華民国は新疆省を設け統治を強化した。多数派のウイグルは三度の「独立」を試みた。①ヤクブ・ベく政権(1870~77年)、②東トルキスタン・イスラム共和国(1933~34年)、③東トルキスタン共和国(1944~49年)である。然し、大国の思惑に翻弄され、いずれも短命に終わり、挫折した。とくに、東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦終了にともなう、ソ連と民国の裏取引(外モンゴル独立の承認と東北部権益の引き換え)により見殺しにされた。そして1949年の中華人民共和国の成立にともない、民国を中共に乗り換えたソ連により「共和国」幹部はソ連領内に連行されたともいう。かくて三度の独立の失敗によって、ウイグルははその独立を半永久的に失うにいたった。とくに「共和国」のイリ蜂起などは否定され「三区革命」と言いかえられた。「共和国」幹部を物理的に抹殺(ソ連の手を借りて)して、唯一のこったサイフジンと結託した「後ろ暗さ」故に「東トルキスタン」の名称やその独立を云々することはタブーとなったのである。

(新疆ウイグル自治区の成立)

 1949年11月人民解放軍第一野戦兵団がウルムチに進軍し、12月新疆人民政府が成立した。中共の統治は当初微温的なものであったが、土地改革の進行とともに強制的なものになった。その第一歩となったのが新疆建設兵団の誕生(1954年10月)と新疆ウイグル自治区の成立(1955年10月)であった。「兵団」の誕生は、大量の漢人の移住となり、新疆の総人口2585万人のうち、漢人は実に1092万人(ウイグルは1162万人)とほぼ拮抗するにいたった(2020年現在)。また「自治区」成立により「民族区域自治」が提唱され、「独立」は明確に否定された。

(中国共産党の異民族統治政策)

 中国の異民族政策は、異民族を排除する「排外」と包み込む「融和」が伝統的に交互に続いてきた。中共は当初コミンテルンの指導を受け民族の独立を容認していたが、政権をとると、ソ連の連邦制を含めて「独立」は否定された。それに代わって「民族区域自治」が打ち出されたのである。新疆統治もその例にもれない。文革後の一時期「融和」の時代(胡耀邦)もあったが、習近平体制の現在は「排外」に大きく舵がきられた。とくにチベットで悪名を轟かせた陳全国が「自治区」の書記に就任(2016~21)すると沸点に達した。監視カメラや顔認証などのAI技術の駆使と「親戚制度}という家庭内の監視の徹底はジョージ・オーエルの世界のようにグロテスクである。更に2017年3月の「自治区脱過激化条例」の制定を契機に「職業技能教育訓練センター」が設けられた。その実態は洗脳と強制労働であり、「現代のラーゲリ」「民族ジェノサイド」であると欧米メディアは非難する。その規模はあまりにも大きいという。一方中国は「事実無根」「内政干渉」とにべもないが、「脱過激化」一定の成果をあげたとして、陳全国を離任(解任ではない)させる。

 著者は中国の新疆政策は、一部には「ジェノサイド」ないし「文化的ジェノサイド」に重なるものもあるが、欧米の非難するような「ジェノサイド」ではないという。「新疆政策」の内容は、①産児制限の厳格化、②「訓練センター」への収容、③綿花畑での綿つみ労働への動員・内地への集団就職、④AI/親戚制度による徹底管理、⑤中国語教育の普及・「中華民族共同体」意識の鋳造である。これはウイグル人を完全に排除するものではなく、「民族」の破壊というより、「民族」の改造を目的にしたものであるという。然し、「中華民族」ないし「共同体」というのは歴史的にもフィクションにしか過ぎないのではないか。

 著者は、欧米メディアの告発、中国側の反論・プロパガンダに与せず、第三者的立場から、本書を書いたという。その冷静な記述には好感がもてる。また巻末の詳細な関連年表、参考文献は「新疆問題」を考える上で非常に有益で、座右に置きたい一冊である。


2025年3月1日土曜日

楼蘭王はどこ居たか

 「楼蘭 幻のオアシス」 王炳華/渡辺剛訳 牧歌舎 2009年


 日本で出版された楼蘭王国史の概説書としては次の4書がある。①「楼蘭王国」長澤和俊(校倉書房1963年、レグルス文庫1970年、徳間文庫1978年)②「楼蘭 流砂に埋もれた王都」A・ヘルマン/松田寿男訳・解説 平凡社(東洋文庫)1963年③「楼蘭王国ロプ・ノール湖畔の四千年」」赤松明彦 中公新書2005年④「楼蘭 幻のオアシス」王炳華/渡辺剛 牧歌舎2009年 ①は最も内容豊富で優れた概説書である。徳間文庫版はその時点での新情報も取り入れ中身も一新しているが、やや古い。②はさらに古い。③は楼蘭人の始原を印欧族の移動・アファナシェヴォ文化に求める学説を紹介している。またカロシュティー文書からはクロライナ王都説は証明できないとするなどユニークである。④は現行、最も新しい概説書である。楼蘭の始原については③より更に詳しい。また1988年日中共同楼蘭探検隊に参加したおりのLA踏査の知見が反映している。

 楼蘭の王都については北方説(王都はLA)、南方説(ミーランもしくはチャルフリク)、南遷説(最初はLA,後にミーラン・チャルフリクに移動)の3説がある。中国では伝統的に楼蘭が漢の属国になった時に国名変更(楼蘭→鄯善)とともに王都も湖北から湖南に移動したと考えられていた。①長澤は北方説で王都は一貫してLAであるとの立場である。②ヘルマン同様、松田も南遷説(LAからチャルフリク)で、更に詳しい「漢書」地理的考証をしている。③赤松は王都は「カロシュティー文書が唯一出土していない場所」ミーランとしている。④は南遷説で、国名変更時にLAからチャルフリクに移動したとしている。それでは楼蘭王はどこに居たのか。

 本書の著者王炳華はLA踏査の知見から前漢時代の王宮はLA内の三間房だとしている。三間房は東西12.5m南北8.5mと小さいが、それは広い敷地(1800平方m)の一部に過ぎない。LA全体(10万8千平方m)の中では大きい部分を占めている。「前77年から、楼蘭は鄯善と名前を変え、扞泥に遷都したからといって、大きな変化があったわけではなかった。(中略)ここは東西交通の重要拠点、孔雀河下流の最も理想的なオアシスとして、最終的に遺棄されるまで大きな変化もなく、変わったのは古城の主だけであった。(本書P99)」魏晋時代の西域長史府は楼蘭王の宮廷を踏襲していたのである。ヘディンやスタインはここで大量の木簡、竹簡、紙文書を発掘したが、1980年新疆考古作業者も62枚の残簡を発掘している。文書紀年は4世紀の40年代のものである。

 長澤は①の段階では、三間房は中国軍進駐以前貴族の館で、王宮は仏塔南の「大きな家」だとしていた。然しLA踏査以降は次のように改めている。「遺跡の現状から見て、まず王宮跡は三間房にあったと見てよいであろう。数は必ずしも多いとは言えないが、ここからカロシュティー文書がが出土しているのは、その一証といえよう。(中略)三間房は現在廃墟と化しているが、これを土台にしてさらにその上に二階があったとすれば、いかにも王宮にふさわしい威容を示したことであろう。(「楼蘭王国史の研究」1996年P194)」魏晋の駐屯軍が進出した結果、西域長史が住むようになった。そして楼蘭王は三間房の北側(スタインのⅤもしくはⅥ)に移住したとしている。

  また王、長澤と共にLAを踏査した伊藤敏雄は三間房西側の大宅院(スタインのⅣ)を前漢時代の王宮と推測している。スタインはここを「土着民の政府」とみなした。ちなみに伊藤は南遷説であり、「大宅院は比較的早期の建築であり、仏塔は相対的に晩期の建築で、(中略)官署は更に遅い建築」(「楼蘭の遺跡」大阪教育大紀要1990年)であるとしている。

 LAは後漢時代以降の遺跡で前漢時代には遡れないと言われていた。然し楼蘭を踏査した3人の論者は前漢時代の王宮は、三間房(王、長澤)、西側の大宅院(伊藤)としている。中国軍の進駐以降はそれぞれの論拠により異なる。これに関して富谷至は興味深い指摘をしている。LAで発掘された漢簡とカロシュティー簡が、同じ木簡を使いながら、書写材料としての使用法に連続性が認められないというのである。そして「中国の行政の在り方が、この地の王国、少なくともカロシュティーを使う民族には受け入れられなかったことを示すものであろう」(「流沙出土の文字資料」京大出版会2001年)として、お互いそれぞれ独自の行政を行っていたと考えている。「この地の王国」とは楼蘭王国である。長澤が主張するように中国の軍司令部(西域長史府)と楼蘭王はLA城内に同居していたのか。LAはかなりの面積(甲子園球場3個分)があるから、それは十分可能である。