「楼蘭 幻のオアシス」 王炳華/渡辺剛訳 牧歌舎 2009年
日本で出版された楼蘭王国史の概説書としては次の4書がある。①「楼蘭王国」長澤和俊(校倉書房1963年、レグルス文庫1970年、徳間文庫1978年)②「楼蘭 流砂に埋もれた王都」A・ヘルマン/松田寿男訳・解説 平凡社(東洋文庫)1963年③「楼蘭王国ロプ・ノール湖畔の四千年」」赤松明彦 中公新書2005年④「楼蘭 幻のオアシス」王炳華/渡辺剛 牧歌舎2009年 ①は最も内容豊富で優れた概説書である。徳間文庫版はその時点での新情報も取り入れ中身も一新しているが、やや古い。②はさらに古い。③は楼蘭人の始原を印欧族の移動・アファナシェヴォ文化に求める学説を紹介している。またカロシュティー文書からはクロライナ王都説は証明できないとするなどユニークである。④は現行、最も新しい概説書である。楼蘭の始原については③より更に詳しい。また1988年日中共同楼蘭探検隊に参加したおりのLA踏査の知見が反映している。
楼蘭の王都については北方説(王都はLA)、南方説(ミーランもしくはチャルフリク)、南遷説(最初はLA,後にミーラン・チャルフリクに移動)の3説がある。中国では伝統的に楼蘭が漢の属国になった時に国名変更(楼蘭→鄯善)とともに王都も湖北から湖南に移動したと考えられていた。①長澤は北方説で王都は一貫してLAであるとの立場である。②ヘルマン同様、松田も南遷説(LAからチャルフリク)で、更に詳しい「漢書」地理的考証をしている。③赤松は王都は「カロシュティー文書が唯一出土していない場所」ミーランとしている。④は南遷説で、国名変更時にLAからチャルフリクに移動したとしている。それでは楼蘭王はどこに居たのか。
本書の著者王炳華はLA踏査の知見から前漢時代の王宮はLA内の三間房だとしている。三間房は東西12.5m南北8.5mと小さいが、それは広い敷地(1800平方m)の一部に過ぎない。LA全体(10万8千平方m)の中では大きい部分を占めている。「前77年から、楼蘭は鄯善と名前を変え、扞泥に遷都したからといって、大きな変化があったわけではなかった。(中略)ここは東西交通の重要拠点、孔雀河下流の最も理想的なオアシスとして、最終的に遺棄されるまで大きな変化もなく、変わったのは古城の主だけであった。(本書P99)」魏晋時代の西域長史府は楼蘭王の宮廷を踏襲していたのである。ヘディンやスタインはここで大量の木簡、竹簡、紙文書を発掘したが、1980年新疆考古作業者も62枚の残簡を発掘している。文書紀年は4世紀の40年代のものである。
長澤は①の段階では、三間房は中国軍進駐以前貴族の館で、王宮は仏塔南の「大きな家」だとしていた。然しLA踏査以降は次のように改めている。「遺跡の現状から見て、まず王宮跡は三間房にあったと見てよいであろう。数は必ずしも多いとは言えないが、ここからカロシュティー文書がが出土しているのは、その一証といえよう。(中略)三間房は現在廃墟と化しているが、これを土台にしてさらにその上に二階があったとすれば、いかにも王宮にふさわしい威容を示したことであろう。(「楼蘭王国史の研究」1996年P194)」魏晋の駐屯軍が進出した結果、西域長史が住むようになった。そして楼蘭王は三間房の北側(スタインのⅤもしくはⅥ)に移住したとしている。
また王、長澤と共にLAを踏査した伊藤敏雄は三間房西側の大宅院(スタインのⅣ)を前漢時代の王宮と推測している。スタインはここを「土着民の政府」とみなした。ちなみに伊藤は南遷説であり、「大宅院は比較的早期の建築であり、仏塔は相対的に晩期の建築で、(中略)官署は更に遅い建築」(「楼蘭の遺跡」大阪教育大紀要1990年)であるとしている。
LAは後漢時代以降の遺跡で前漢時代には遡れないと言われていた。然し楼蘭を踏査した3人の論者は前漢時代の王宮は、三間房(王、長澤)、西側の大宅院(伊藤)としている。中国軍の進駐以降はそれぞれの論拠により異なる。これに関して富谷至は興味深い指摘をしている。LAで発掘された漢簡とカロシュティー簡が、同じ木簡を使いながら、書写材料としての使用法に連続性が認められないというのである。そして「中国の行政の在り方が、この地の王国、少なくともカロシュティーを使う民族には受け入れられなかったことを示すものであろう」(「流沙出土の文字資料」京大出版会2001年)として、お互いそれぞれ独自の行政を行っていたと考えている。「この地の王国」とは楼蘭王国である。長澤が主張するように中国の軍司令部(西域長史府)と楼蘭王はLA城内に同居していたのか。LAはかなりの面積(甲子園球場3個分)があるから、それは十分可能である。