2025年3月30日日曜日

新疆ウイグル自治区の現在

    「新疆ウイグル自治区」熊倉潤 中公新書 2022年

 旧ソ連領の中央アジア(ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、カザフスタン各共和国)が「西トルキスタン」と呼ばれるのに対し、新疆ウイグル自治区はかつて「東トルキスタン」」と呼ばれらた。然し、この名称は現在中国では禁句になっている。中国内でこの語を使用することは、中国からから分離・独立を求める国家反逆罪とみなされ極めて危険である。なぜ「東トルキスタン」という名称が禁句となったのか。

 中国で「西域」と呼ばれたこの地方にはBC3千年頃からから印欧語族の一派であるトハラ語族の人々が移住してオアシスに住み着いていた。「楼蘭の美女」として知られる白色人種の人々である。そして9世紀モンゴル高原に覇を唱えた東ウイグル可汗国の人々が、キルギスに圧迫されて天山北麓に移り、ウイグル王国を成立させた。ほぼ「西域」を掌握した。このテュルク系の人々がオアシスを支配下に置き、元からの白色人種と混交し、「西域」のテュルク化が進行した。そして10世紀以降イスラム化も進行した。そ結果、以降この地は「東トルキスタン」と呼称されるようになった。

 中国がタリム盆地を直接支配下に置くようになったのは、ようやく清朝の乾隆帝時代の1759年である。然し、圧倒的に多数のウイグルに少数の漢人。中国の新疆統治は容易ではなかった。清は間接統治であったが、後継の中華民国は新疆省を設け統治を強化した。多数派のウイグルは三度の「独立」を試みた。①ヤクブ・ベく政権(1870~77年)、②東トルキスタン・イスラム共和国(1933~34年)、③東トルキスタン共和国(1944~49年)である。然し、大国の思惑に翻弄され、いずれも短命に終わり、挫折した。とくに、東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦終了にともなう、ソ連と民国の裏取引(外モンゴル独立の承認と東北部権益の引き換え)により見殺しにされた。そして1949年の中華人民共和国の成立にともない、民国を中共に乗り換えたソ連により「共和国」幹部はソ連領内に連行されたともいう。かくて三度の独立の失敗によって、ウイグルははその独立を半永久的に失うにいたった。とくに「共和国」のイリ蜂起などは否定され「三区革命」と言いかえられた。「共和国」幹部を物理的に抹殺(ソ連の手を借りて)して、唯一のこったサイフジンと結託した「後ろ暗さ」故に「東トルキスタン」の名称やその独立を云々することはタブーとなったのである。

(新疆ウイグル自治区の成立)

 1949年11月人民解放軍第一野戦兵団がウルムチに進軍し、12月新疆人民政府が成立した。中共の統治は当初微温的なものであったが、土地改革の進行とともに強制的なものになった。その第一歩となったのが新疆建設兵団の誕生(1954年10月)と新疆ウイグル自治区の成立(1955年10月)であった。「兵団」の誕生は、大量の漢人の移住となり、新疆の総人口2585万人のうち、漢人は実に1092万人(ウイグルは1162万人)とほぼ拮抗するにいたった(2020年現在)。また「自治区」成立により「民族区域自治」が提唱され、「独立」は明確に否定された。

(中国共産党の異民族統治政策)

 中国の異民族政策は、異民族を排除する「排外」と包み込む「融和」が伝統的に交互に続いてきた。中共は当初コミンテルンの指導を受け民族の独立を容認していたが、政権をとると、ソ連の連邦制を含めて「独立」は否定された。それに代わって「民族区域自治」が打ち出されたのである。新疆統治もその例にもれない。文革後の一時期「融和」の時代(胡耀邦)もあったが、習近平体制の現在は「排外」に大きく舵がきられた。とくにチベットで悪名を轟かせた陳全国が「自治区」の書記に就任(2016~21)すると沸点に達した。監視カメラや顔認証などのAI技術の駆使と「親戚制度}という家庭内の監視の徹底はジョージ・オーエルの世界のようにグロテスクである。更に2017年3月の「自治区脱過激化条例」の制定を契機に「職業技能教育訓練センター」が設けられた。その実態は洗脳と強制労働であり、「現代のラーゲリ」「民族ジェノサイド」であると欧米メディアは非難する。その規模はあまりにも大きいという。一方中国は「事実無根」「内政干渉」とにべもないが、「脱過激化」一定の成果をあげたとして、陳全国を離任(解任ではない)させる。

 著者は中国の新疆政策は、一部には「ジェノサイド」ないし「文化的ジェノサイド」に重なるものもあるが、欧米の非難するような「ジェノサイド」ではないという。「新疆政策」の内容は、①産児制限の厳格化、②「訓練センター」への収容、③綿花畑での綿つみ労働への動員・内地への集団就職、④AI/親戚制度による徹底管理、⑤中国語教育の普及・「中華民族共同体」意識の鋳造である。これはウイグル人を完全に排除するものではなく、「民族」の破壊というより、「民族」の改造を目的にしたものであるという。然し、「中華民族」ないし「共同体」というのは歴史的にもフィクションにしか過ぎないのではないか。

 著者は、欧米メディアの告発、中国側の反論・プロパガンダに与せず、第三者的立場から、本書を書いたという。その冷静な記述には好感がもてる。また巻末の詳細な関連年表、参考文献は「新疆問題」を考える上で非常に有益で、座右に置きたい一冊である。


2025年3月1日土曜日

楼蘭王はどこ居たか

 「楼蘭 幻のオアシス」 王炳華/渡辺剛訳 牧歌舎 2009年


 日本で出版された楼蘭王国史の概説書としては次の4書がある。①「楼蘭王国」長澤和俊(校倉書房1963年、レグルス文庫1970年、徳間文庫1978年)②「楼蘭 流砂に埋もれた王都」A・ヘルマン/松田寿男訳・解説 平凡社(東洋文庫)1963年③「楼蘭王国ロプ・ノール湖畔の四千年」」赤松明彦 中公新書2005年④「楼蘭 幻のオアシス」王炳華/渡辺剛 牧歌舎2009年 ①は最も内容豊富で優れた概説書である。徳間文庫版はその時点での新情報も取り入れ中身も一新しているが、やや古い。②はさらに古い。③は楼蘭人の始原を印欧族の移動・アファナシェヴォ文化に求める学説を紹介している。またカロシュティー文書からはクロライナ王都説は証明できないとするなどユニークである。④は現行、最も新しい概説書である。楼蘭の始原については③より更に詳しい。また1988年日中共同楼蘭探検隊に参加したおりのLA踏査の知見が反映している。

 楼蘭の王都については北方説(王都はLA)、南方説(ミーランもしくはチャルフリク)、南遷説(最初はLA,後にミーラン・チャルフリクに移動)の3説がある。中国では伝統的に楼蘭が漢の属国になった時に国名変更(楼蘭→鄯善)とともに王都も湖北から湖南に移動したと考えられていた。①長澤は北方説で王都は一貫してLAであるとの立場である。②ヘルマン同様、松田も南遷説(LAからチャルフリク)で、更に詳しい「漢書」地理的考証をしている。③赤松は王都は「カロシュティー文書が唯一出土していない場所」ミーランとしている。④は南遷説で、国名変更時にLAからチャルフリクに移動したとしている。それでは楼蘭王はどこに居たのか。

 本書の著者王炳華はLA踏査の知見から前漢時代の王宮はLA内の三間房だとしている。三間房は東西12.5m南北8.5mと小さいが、それは広い敷地(1800平方m)の一部に過ぎない。LA全体(10万8千平方m)の中では大きい部分を占めている。「前77年から、楼蘭は鄯善と名前を変え、扞泥に遷都したからといって、大きな変化があったわけではなかった。(中略)ここは東西交通の重要拠点、孔雀河下流の最も理想的なオアシスとして、最終的に遺棄されるまで大きな変化もなく、変わったのは古城の主だけであった。(本書P99)」魏晋時代の西域長史府は楼蘭王の宮廷を踏襲していたのである。ヘディンやスタインはここで大量の木簡、竹簡、紙文書を発掘したが、1980年新疆考古作業者も62枚の残簡を発掘している。文書紀年は4世紀の40年代のものである。

 長澤は①の段階では、三間房は中国軍進駐以前貴族の館で、王宮は仏塔南の「大きな家」だとしていた。然しLA踏査以降は次のように改めている。「遺跡の現状から見て、まず王宮跡は三間房にあったと見てよいであろう。数は必ずしも多いとは言えないが、ここからカロシュティー文書がが出土しているのは、その一証といえよう。(中略)三間房は現在廃墟と化しているが、これを土台にしてさらにその上に二階があったとすれば、いかにも王宮にふさわしい威容を示したことであろう。(「楼蘭王国史の研究」1996年P194)」魏晋の駐屯軍が進出した結果、西域長史が住むようになった。そして楼蘭王は三間房の北側(スタインのⅤもしくはⅥ)に移住したとしている。

  また王、長澤と共にLAを踏査した伊藤敏雄は三間房西側の大宅院(スタインのⅣ)を前漢時代の王宮と推測している。スタインはここを「土着民の政府」とみなした。ちなみに伊藤は南遷説であり、「大宅院は比較的早期の建築であり、仏塔は相対的に晩期の建築で、(中略)官署は更に遅い建築」(「楼蘭の遺跡」大阪教育大紀要1990年)であるとしている。

 LAは後漢時代以降の遺跡で前漢時代には遡れないと言われていた。然し楼蘭を踏査した3人の論者は前漢時代の王宮は、三間房(王、長澤)、西側の大宅院(伊藤)としている。中国軍の進駐以降はそれぞれの論拠により異なる。これに関して富谷至は興味深い指摘をしている。LAで発掘された漢簡とカロシュティー簡が、同じ木簡を使いながら、書写材料としての使用法に連続性が認められないというのである。そして「中国の行政の在り方が、この地の王国、少なくともカロシュティーを使う民族には受け入れられなかったことを示すものであろう」(「流沙出土の文字資料」京大出版会2001年)として、お互いそれぞれ独自の行政を行っていたと考えている。「この地の王国」とは楼蘭王国である。長澤が主張するように中国の軍司令部(西域長史府)と楼蘭王はLA城内に同居していたのか。LAはかなりの面積(甲子園球場3個分)があるから、それは十分可能である。