「日本における楼蘭研究100年 」伊藤敏雄 歴史研究54 2017年3月
1900年スウェン・ヘデインによって楼蘭遺跡が発見された。翌年の再調査による出土資料の「楼蘭」の文字から、それが「史記」大宛伝の伝える楼蘭の都城であることが明らかになった。日本における楼蘭研究はその直後の1920年代から始まった。それから100年に及ぶ研究の歩みを著者は5期に区分して整理し、研究の到達点と課題を述べている。本論考は掲載誌(「歴史研究」54 大阪教育大学)が一般読者にはやや利用しにくいこともあり、以下その要旨を紹介し、楼蘭研究の現段階を検証する。
(研究史の概要)
①黎明期(1910年代~50年代)この時期の特徴は国都の位置をめぐる論争として始まったことである。スタインに触発された藤田豊八は国都(伊循城)をチャルクリック、扞泥城をミーランに比定した(1924)。南方説である。これに対し大谷勝鎮は国都の南遷を説き、楼蘭故城から扞泥城(アブダン)へ遷り、さらに伊循城(ミーラン)に遷ったとした(1933)。南遷説である。また松田寿男も「漢書」西域伝の里程を分析し、その中で楼蘭と鄯善の位置を別にし(1956)、後に南遷説を唱える(1963)基礎を築いた。
②興隆期(1960年代)この時期榎一雄、長澤和俊によるカローシュティ文書を用いた研究が進んだ。榎は文書中のクロライナが楼蘭で、クロライナ=クヴァニ(扞泥城)=マハムタ・ナガラ(大都市)とし、国都扞泥城を楼蘭故城に比定した(1961,63,65,66)。また文書の年代を3世紀後半~4世紀と推定した。その後アムゴーカ王の17年を283年と推定し、5世紀頭まで楼蘭(LA)が国都であると修正した(1967)。また1963年日本で初めて楼蘭に関する概説書が刊行された。長澤「楼蘭王国」とヘルマン(松田寿男訳・解説)「楼蘭」である。前者は楼蘭故城(LA)を扞泥城に比定し、終始LAが国都であったとする北方説を主張する。後者は松田が詳細な解説を付し、楼蘭から扞泥城に南遷したとし、扞泥城をミーラン、伊循城をチャルクリックに比定する南遷説である。長澤は松田の弟子にあたるが、子弟が北方説、南遷説に分かれた。ともあれ良書は一般向け概説書ではあるが、内容が豊富で、日本における楼蘭研究の基礎になった。
③発展期(1970年代)この時期長澤の精力的な研究が学界をリードした。「魏晋楼蘭屯戊攷」(1975)で魏晋楼蘭屯戊の時期と官制を考察し、更に魏の屯戊は222年に設置され、晋は魏の屯戊を継承したとする(1977)。これは出土漢文文字資料を本格的に用いた初めてのもので注目された。またカローシュティ文書の研究から、2世紀後半にクシャン朝移民団の征服による第二鄯善王朝建国を唱えた。魏の西域経営は222年から始まり、228年から魏の勢力が決定的に鄯善に及んだとし、5人の王の時代を203~288/90年と推定した。
④展開期(1980年代~90年代前半)この時期の特徴は研究者の増大と研究の緻密化・深化である。まず1988年朝日新聞・テレビ朝日主催の日中共同楼蘭探検隊の成果である。参加して楼蘭故城を訪問した長澤・伊藤敏雄は経過・成果を紹介した。伊藤は楼蘭故城は漢代の遺跡ではないという中国側の見解を重視するが、長澤は否定的である。この年、黄文弼の「ロプノール考古記」(田川純三訳)が刊行された。出土漢文文字資料の研究では候燦(1984)や伊藤(1983)などをもとに長澤は自説を大幅に修正・増補して屯戊の実体を整理した(1990,91)。カローシュティ文書のについては、長澤以外山本光郎が取り組んだ。「漢書」西域伝中の「寄田仰穀」について考察し(1984)、鄯善王国に関する歴史的・民族的問題を概観した(1990)。また李柏文書の出土地については、片山章雄がLA説を提唱(1988)し、ほぼ決着した。
⑤新展開期(1990年代後半~)海外諸機関との共同調査が進展した。2006年からの地球研と新疆文物研究所の小河墓共同調査で、小河墓地域の自然環境の変遷を追求した。王炳華の「滄桑楼蘭」の邦訳「楼蘭~幻のオアシス」(2007)が刊行されたが、その成果が反映されている。また井ノ口泰淳らサンスクリット学者による、バローの英訳によらないカロシュティー文書の研究が進んだ。赤松明彦はその研究の現状と課題を整理して、「扞泥」をクロライナ(楼蘭)とする根拠はないとした。赤松の「楼蘭王国」(2005)は最も新しい概説書である。出土漢文文字資料の研究も進展した。梅原郁は長澤の「楼蘭=LA=扞泥城=鄯善の王都」説を否定した(2001)。伊藤は国都に関する3説(北方説、南方説、南遷説)を検討・整理し、前漢の西域都護設置後か後漢前期に楼蘭地区から若羗地区に遷ったとする南遷説を主張した(2008)。衛星写真を利用した考古学的研究も登場した。相馬秀廣は衛星写真を新疆自治区の地理環境の研究に用いた。伊藤・相馬は于志勇の研究をふまえLE故城が伊循城である可能性を強調した(2014)。伊藤は楼蘭の滅亡について、若羌地区と楼蘭地区に分けて考察することを提唱した(2014)。前者はは北魏の征服後、遊牧民の攻撃・支配により住民が離散し廃墟化した。後者は国都南遷後、戦略的重要性が低下し駐屯軍が派遣されなくなり荒廃したとする(2013)。
(研究の到達点と課題)
伊藤は以下のように整理する。
①国都の位置について研究は出尽くした。北方説は否定されたが、南遷説か南方説の確定には、今後の新たな考古学的発見が待たれる。
②楼蘭の滅亡について考察法(2地区に分ける)は示されたが、史料・考古学的成果が不足し、研究の進展は望みにくい。
③李柏文書の出土地についてはLAで結着。
④カローシュティ文書については、1990年代後半原文を用いた研究が進展したが、2008年以降研究が減少している。
⑤出土漢文文字資料を用いた研究は長澤(1975)以降展開され、1990年代以降進展しつつある。今後古文書学的研究をふまえた文字資料の利用が課題となる。
⑥日中共同ニヤ遺跡学術調査(1988年開始)や海外諸機関との共同研究が展開されているが、その進展が期待される。
(解決されたものともちこされたもの)
以上伊藤の「日本における楼蘭研究100年」の概要をやや詳しく紹介した。李柏文書出土地のように結着がついたものや、出土漢文文字資料研究、海外諸機関との共同研究など今後の成果に期待できるものもある。然し楼蘭の滅亡についての伊藤の見解は現段階では推測の域を出ない。またカローシュティ文書の取り扱いについては要注意である。この文書はあくまで「2~4世紀の文書」という限界性がある。したがって著者の北方説の否定には疑義が残る。国都問題は南遷説がやや有力ではあるが、結着は持ち越されたというべきである。 ともあれ本論文は、わが国における100年に及ぶ楼蘭研究の全容を要領よくまとめており、とくに巻末の詳細な註記は今後の研究者の手引き、研究の基礎となるものである。また一般読者にもおおいに参考となり有益である。