2026年10月12日月曜日

楼蘭~解明されつつある謎   

 「シルクロードと古代中国文明~流砂の記憶」林梅村 NHK出版 2005年


 楼蘭王国史にはいまだ解明されない謎が多い。一つ解明されれば、また新たな謎が浮上する。それは資料の絶対的な少なさとその断片性にもよる。楼蘭王国史の根本資料は、「史記」や「漢書」など歴代王朝正史西域伝等の文献と現地出土のカロシュティー文書や漢文書である。文献資料の種類は少なくないが断片的である。また出土資料は年代が3~4世紀に限定される。然しそれでも最近いくつかの疑問点が解明されつつある。①「漢書」西域伝の「楼蘭は漢に近く」の意味、②「水経注」の「治伊循城」という語句の解釈、③カロシュティー文書の5人の王の最後のヴァスマナについて、④トカラ語族(月氏)の2度の民族移動について、⑤鄯善が楼蘭城(LA)を支配していた時期についてなどである。

 ①中国の林梅村はその著書で「漢に近く」の意味を、楼蘭城はロプノールに設置された前漢の軍事的中心(土垠遺跡)からほど近くだったとしている。これは黄文弼の土垠遺跡の発掘が背景にある。スタインは土垠の西南付近で発掘したLE(方城)を楼蘭故城としているが誤り。仏教建築物などなく、仏教がこの地に伝来する以前(前漢以前)に築城されたものである。東西交通の要所に位置しているLAこそが前漢・元鳳4年以前の楼蘭王国の都であった。

 ②「水経注」河水条の「治伊循城」は多くの研究者を悩ませてきた。然しこの書物には多くの錯稿があり、伊藤敏雄は中国の章巽の説を紹介している。章巽は次のように指摘した。本来Aの部分にC以下の部分が入るというのである。

(「水経注」河水条 原文)

〇・・・注濱河又東、巡鄯善国北、治A伊循城、故楼蘭地也・・・C扞泥城、其俗謂之東故    城・・・

この指摘に従って、Aの部分にC以下を挿入すると以下のようになる。

(「水経注」河水条 修正)

〇・・・注濱河又東、巡鄯善国北、治扞泥城、其俗謂之東故城・・・伊循城、故楼蘭之地也

鄯善の王都は扞泥城ということになり、「治伊循城」の悩みは解消される。「水経注」は「漢書」西域伝や「釈氏西域伝」からの引用が多く、当時(北魏)の情報としては、扞泥城が「東の故城」と呼ばれていたということくらいである。

(参考)「『水経注』中的扞泥城和伊循城」省巽 1986年

    「楼蘭(鄯善)国都考 伊藤敏雄 西北出土文献研究6 2008年

 ③カロシュティー文書に見える5人の王の最後ヴァスマナが鄯善国王元孟に当たると榎一雄が指摘した。元孟の「元」はヴァ(ス)を写したもので、「孟」はマナに近いという。カロシュティー文書の解読から、5王の在位年数はブラフ教授(AD236~321)、榎一雄(同256~341/3)、長澤和俊(同203~288/90)である。前涼の楊宣の鄯善攻撃(AD335)、元孟の前涼入貢(AD336)は榎の5王在位年数の範囲に収まる。かくして5王の治世は4世紀にかかることがわかる。

(参考)「再びカロシュティー文書の年代について」付記 長澤和俊(「楼蘭王国史の研究」                      雄山閣1996年所収)

    「十六国春秋輯補」巻70 前涼録

 ④スタファン・ローゼンは、タリム盆地東南部(楼蘭王国)のチャルクリクとエンデレの地域にトカラ人または月氏の血を引く人々が住んでいた可能性を指摘している。2度にわたる民族移動があった。1回目はBC一千年紀の初め、2回目はBC2世紀。またガンダーラ・プラークリットが楼蘭王国に登場した時期はAD175~202年、中国正史の西域に関する記載の空白期の年代。あるいはクシャン朝によるタリム盆地占領の結果と推測している。

(参考)「西域南道に関する諸問題」スタファン・ローゼン 「流砂出土の文字資料」

   京大出版会2001年所収

 ⑤中国の孟凡人は、鄯善が楼蘭城(LA)を統治していた時期はアムゴーカ王の後期で、西域長史が離れた短い期間で、それ以外王はニヤで統治を執っていたとしている。

(参考)「魏晋楼蘭屯田概況」孟凡人 農業考古 1985年

    「楼蘭の遺跡」伊藤敏雄 大教大紀要(Ⅱ)38-2 1988年

 ①~③はほぼ妥当である。①の「楼蘭城」が「漢に近く」という「漢書」(西域伝)の語句が、土垠遺跡の発掘によって明確になったことは重要である。また②の「治伊循城」という語句の解明も特筆に値する。③のカロシュティー文書に見える5王の存在が漢籍資料の中で確認されたことは、楼蘭王国史の研究を一歩進めたといえる。ただ④、⑤に関しては魅力的だが立証は困難である。

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