2026年7月6日月曜日

ラオス縦断鉄道

「変貌するアジアの鉄道」 柿崎一郎 成山堂書店 2025年3月 


 2021年12月にラオスのビエンチャンから中国との国境ボーテンを経由して中国のモーハンへの路線が開通した。タイのノンカイから対岸のターナーレンへの鉄道はすでに開通(2009年)していた。そして2024年にはビェンチャン郊外のカムサワートまで延伸された。乗り継げばシンガポールからポルトガルまで鉄路で移動する可能性が見えてきたのである。かつてのシベリア鉄道に比肩する雄大なスケールである。知られることの少ないラオスの鉄道に関する情報を本書から紹介しよう。

 (ラオス鉄道)ラオスは鉄道のない国であった。然し、オーストラリアの支援でノンカイと対岸を結ぶメコン川橋梁(タイ・ラオス友好橋)が1994年開通すると、タイの鉄道をラオスに伸ばす計画が浮上し、ノンカイ~ターナレーン間3.5キロが建設され、2009年に開通した。ラオス初めての鉄道となった。運航のためにラオス国鉄が設立された。列車の運行は、当初タイ側からのみで、車両は保有していなかった。その後、ターナーレンからビェンチャン郊外のカムサワート(ビェンチャン中心部より6.5キロ東)までの7.5キロが開通した(2024年)。これまでノンカイ~ターナレーン間で運行されていた国際列車に代えてバンコク~ビェンチャン間の直行列車の運行が開始された。タイの出国はノンカイ駅のホームのはずれにあるゲートで行われる。バンコクからの乗客も、荷物をすべて持って下車し出国審査へ。その間に列車はホーム北端、ゲートの向こう側に移動している。ラオス入国はカムサワートの改札で行われる。改札が入国審査のゲートになっている。入国カードはここで書く。列車内には用意されていない。なおこの鉄道のビェンチャン駅(ビェンチャン中央駅)はラオス中国鉄道のビェンチャン駅とは別で相当離れており、両駅間はバスで結ばれている。

 (ラオス中国鉄道)2021年12月4日ビェンチャンと中国との国境ボーテンを結ぶラオス中国鉄道が開通した。総延長422キロ。当初は高速鉄道として計画されたが、実際は最高速度160キロの標準軌、単線、電化の中速鉄道である。同時に中北国内の玉渓(ユーシー)~磨憨の玉磨線も開通し、ラオスと中国を結ぶ国際線としてデビューした。運営は中国とラオスが設立した合弁会社ラオス中国鉄道が行っているが、実態は完全に中国の鉄道である。電化方式も中国と同じ交流2.5万ボルト、レールも中国同様標準軌である。この列車の駅(ビェンチャン駅)は市街中心部から北東に15.2キロ離れた郊外サイ村に位置している。車で40分もかかる。駅舎は中国式の壮大な建物だが、大半は待合室である。急行列車(瀾滄号)は中国の高速列車復興号型(CR200型)で、ビェンチャン~ボーテン間を3時間半で結び、2023年にはビェンチャン~昆明を9時間半で結ぶ国際列車の運行を開始した。この鉄道によってビェンチャンと沿線の町との所用時間が大幅に短縮された。例えば古都ルアンパバーンは従来バスで10時間ほどかかったが、僅か2時間で到達できる。現在この間は区間列車が1日3本運行されている。なおビエンチャン~ボーテン間は2往復、ビエンチャン~昆明間は2往復している。

 ラオス中国鉄道の旅客運送は順調に推移しているが、本来の役割は貨物輸送である。タイから延伸されたメートル軌のラオス鉄道のターナレーンには内陸港(ドライポート)が建設された。一方ラオス中国鉄道は終点ビェンチャン南駅(貨物駅)から引き込み線をドライポートまで整備し、2022年7月から運用を始めた。タイから来るメートル軌の列車と中国から来る標準軌の列車を並べて、相互にコンテナの積み替えができるようになった。すなわち、事実上シンガポールと昆明が鉄道で結ばれたのである。2023年2月には昆明からバンコクに向けて初の「直通」列車が運行された。タイではこの鉄道が、中国への新たな輸出ルートとして注目されている。


2026年5月28日木曜日

清張ルネサンス

 「松本清張の昭和」酒井信 講談社現代新書 2025年12月


 昨年(2025年)には本書を含めて松本清張に関する書籍が5冊も刊行された。「砂の器映画の魔性」(樋口尚文 筑摩書房)、「松本清張の女たち」(酒井順子 新潮社)、「松本清張と水上勉」(藤井淑禎 筑摩書房」、松本清張の深層心理」(藤脇邦夫 幻燈舎)などである。死後30年以上経過しても清張への関心は高い。あたかも清張ルネサンスの感さえある。現在は、各社の日本文学全集刊行が覇を競った昭和の時代とは違う。文庫本においても、夏目漱石などを例外として、他の作家は死後急速に忘れられる。清張と同年生まれの太宰治、大岡昇平にしても文庫にラインナップされるのは代表作など数点にすぎない。

 独り清張への関心はまぜ高いのか。著者はその秘密を清張の驚異的な執筆量に求める。全集完結時点(1996年 全66巻)で著書750点、作品数約1000点、原稿用紙12万枚に及んだ。各文庫の収録も現役作家並みに多く圧倒的である。例えば新潮文庫の清張作品は45冊で総発行部数は4607万1600部に達する。ちなみに同文庫の清張ベスト5は以下のようである。①「砂の器」466万6500部、②「点と線」323万900部、③「ゼロの焦点」249万5000部、④「わるいやつら」229万4900部、⑤「黒皮の手帳」159万2000部(2025年8月現在)「清張山脈」の裾野の広さを表している。清張の「国民作家」たる所以である。

 また本書では従来から疑問があった清張の生年と出生地の謎をほぼ解明している。清張は1909(明治42)年12月21日に福岡県企救(きく)郡板櫃(いたびつ)村(現在の北九州市小倉北区)大字篠崎で生まれたとされる。然し現存する生後2か月頃の写真の台紙の裏には「明治42年2月12日生、同年4月15日写」「広島京橋」と書かれ、撮影者として「小早川圭風」という名前が記されている。広島郷土資料館の調べによると、「小早川写真館」は広島京橋にかつて実在していた。その場所は広島駅の南口のすぐそばであった。また2枚目の乳児期の写真の台紙には「広島土手町 俵写真館」とあり、台紙裏には「明治42年2月12日、同年6月27日写」と記されている。土手町(現松川町、比治山町、稲荷町)は京橋に近い、清張は「父系の指」で出生地を「広島のK町」としている。K町がどこかというと、大胡な紡績工場があった広島駅東南側に位置する蟹屋町である。この場所には大阪合同紡績会社があり、1908年には蟹屋町だけでも704人の従業員が働いていた。そこは相対的に家賃も安く、収入の少ない清張の父母にとって住みやすい場所であった。なにより旧蟹屋町は京橋の小早川写真館にも土手町の俵写真館にも近い。現在広島東洋カーカープのマツダスタジアムが建てられている当たりである。以上から著者は清張は1909年2月12日に蟹屋町で生まれたとしている。

 清張は「父系の指」で「私はK町で生まれたと聞かされた。その町がどういう所か知らない。行って見る気もしない。おそらくきたない、ごみごみした所であったろう。」と書いている。だが「広島は因縁の深い土地だ。父と母はここで一緒になった。しかし、私は一度も広島に行ったことがなかった。」(「半生の記」)とも。清張にとっての故郷は前半生を過ごした小倉である。然し作品の舞台には多くはないが、府中(「古本」)、三次(「神々の乱心」)、尾道(「内海の輪」)が選ばれている。そして広島と近郊は「汽車は一時間かかった。可部は古い、狭い町だった。町の真ん中を川が流れている。太田川という名前で、この下流は広島に注いでいる。そこはかとない頽廃が古い家並みに沈んでいた。」(「駅路」)と描かれている。清張は剛腕にまかせて社会派ミステリーを濫作する作家で文章は荒いと思われていた。それが文化勲章を逸した一因(過半は権力者からの嫌忌)でもある。然し上記の風景描写には特別な情緒があり、情感が滲みでている。生後6か月しか過ごさなかった広島へのノスタルジーだろうか。

2025年11月11日火曜日

楼蘭研究の現段階

「日本における楼蘭研究100年 」伊藤敏雄 歴史研究54 2017年3月


 1900年スウェン・ヘデインによって楼蘭遺跡が発見された。翌年の再調査による出土資料の「楼蘭」の文字から、それが「史記」大宛伝の伝える楼蘭の都城であることが明らかになった。日本における楼蘭研究はその直後の1920年代から始まった。それから100年に及ぶ研究の歩みを著者は5期に区分して整理し、研究の到達点と課題を述べている。本論考は掲載誌(「歴史研究」54 大阪教育大学)が一般読者にはやや利用しにくいこともあり、以下その要旨を紹介し、楼蘭研究の現段階を検証する。

(研究史の概要)

①黎明期(1910年代~50年代)この時期の特徴は国都の位置をめぐる論争として始まったことである。スタインに触発された藤田豊八は国都(伊循城)をチャルクリック、扞泥城をミーランに比定した(1924)。南方説である。これに対し大谷勝鎮は国都の南遷を説き、楼蘭故城から扞泥城(アブダン)へ遷り、さらに伊循城(ミーラン)に遷ったとした(1933)。南遷説である。また松田寿男も「漢書」西域伝の里程を分析し、その中で楼蘭と鄯善の位置を別にし(1956)、後に南遷説を唱える(1963)基礎を築いた。

②興隆期(1960年代)この時期榎一雄、長澤和俊によるカローシュティ文書を用いた研究が進んだ。榎は文書中のクロライナが楼蘭で、クロライナ=クヴァニ(扞泥城)=マハムタ・ナガラ(大都市)とし、国都扞泥城を楼蘭故城に比定した(1961,63,65,66)。また文書の年代を3世紀後半~4世紀と推定した。その後アムゴーカ王の17年を283年と推定し、5世紀頭まで楼蘭(LA)が国都であると修正した(1967)。また1963年日本で初めて楼蘭に関する概説書が刊行された。長澤「楼蘭王国」とヘルマン(松田寿男訳・解説)「楼蘭」である。前者は楼蘭故城(LA)を扞泥城に比定し、終始LAが国都であったとする北方説を主張する。後者は松田が詳細な解説を付し、楼蘭から扞泥城に南遷したとし、扞泥城をミーラン、伊循城をチャルクリックに比定する南遷説である。長澤は松田の弟子にあたるが、子弟が北方説、南遷説に分かれた。ともあれ良書は一般向け概説書ではあるが、内容が豊富で、日本における楼蘭研究の基礎になった。

③発展期(1970年代)この時期長澤の精力的な研究が学界をリードした。「魏晋楼蘭屯戊攷」(1975)で魏晋楼蘭屯戊の時期と官制を考察し、更に魏の屯戊は222年に設置され、晋は魏の屯戊を継承したとする(1977)。これは出土漢文文字資料を本格的に用いた初めてのもので注目された。またカローシュティ文書の研究から、2世紀後半にクシャン朝移民団の征服による第二鄯善王朝建国を唱えた。魏の西域経営は222年から始まり、228年から魏の勢力が決定的に鄯善に及んだとし、5人の王の時代を203~288/90年と推定した。

④展開期(1980年代~90年代前半)この時期の特徴は研究者の増大と研究の緻密化・深化である。まず1988年朝日新聞・テレビ朝日主催の日中共同楼蘭探検隊の成果である。参加して楼蘭故城を訪問した長澤・伊藤敏雄は経過・成果を紹介した。伊藤は楼蘭故城は漢代の遺跡ではないという中国側の見解を重視するが、長澤は否定的である。この年、黄文弼の「ロプノール考古記」(田川純三訳)が刊行された。出土漢文文字資料の研究では候燦(1984)や伊藤(1983)などをもとに長澤は自説を大幅に修正・増補して屯戊の実体を整理した(1990,91)。カローシュティ文書のについては、長澤以外山本光郎が取り組んだ。「漢書」西域伝中の「寄田仰穀」について考察し(1984)、鄯善王国に関する歴史的・民族的問題を概観した(1990)。また李柏文書の出土地については、片山章雄がLA説を提唱(1988)し、ほぼ決着した。

⑤新展開期(1990年代後半~)海外諸機関との共同調査が進展した。2006年からの地球研と新疆文物研究所の小河墓共同調査で、小河墓地域の自然環境の変遷を追求した。王炳華の「滄桑楼蘭」の邦訳「楼蘭~幻のオアシス」(2007)が刊行されたが、その成果が反映されている。また井ノ口泰淳らサンスクリット学者による、バローの英訳によらないカロシュティー文書の研究が進んだ。赤松明彦はその研究の現状と課題を整理して、「扞泥」をクロライナ(楼蘭)とする根拠はないとした。赤松の「楼蘭王国」(2005)は最も新しい概説書である。出土漢文文字資料の研究も進展した。梅原郁は長澤の「楼蘭=LA=扞泥城=鄯善の王都」説を否定した(2001)。伊藤は国都に関する3説(北方説、南方説、南遷説)を検討・整理し、前漢の西域都護設置後か後漢前期に楼蘭地区から若羗地区に遷ったとする南遷説を主張した(2008)。衛星写真を利用した考古学的研究も登場した。相馬秀廣は衛星写真を新疆自治区の地理環境の研究に用いた。伊藤・相馬は于志勇の研究をふまえLE故城が伊循城である可能性を強調した(2014)。伊藤は楼蘭の滅亡について、若羌地区と楼蘭地区に分けて考察することを提唱した(2014)。前者はは北魏の征服後、遊牧民の攻撃・支配により住民が離散し廃墟化した。後者は国都南遷後、戦略的重要性が低下し駐屯軍が派遣されなくなり荒廃したとする(2013)。

(研究の到達点と課題)

伊藤は以下のように整理する。

①国都の位置について研究は出尽くした。北方説は否定されたが、南遷説か南方説の確定には、今後の新たな考古学的発見が待たれる。

②楼蘭の滅亡について考察法(2地区に分ける)は示されたが、史料・考古学的成果が不足し、研究の進展は望みにくい。

③李柏文書の出土地についてはLAで結着。

④カローシュティ文書については、1990年代後半原文を用いた研究が進展したが、2008年以降研究が減少している。

⑤出土漢文文字資料を用いた研究は長澤(1975)以降展開され、1990年代以降進展しつつある。今後古文書学的研究をふまえた文字資料の利用が課題となる。

⑥日中共同ニヤ遺跡学術調査(1988年開始)や海外諸機関との共同研究が展開されているが、その進展が期待される。

(解決されたものともちこされたもの)

 以上伊藤の「日本における楼蘭研究100年」の概要をやや詳しく紹介した。李柏文書出土地のように結着がついたものや、出土漢文文字資料研究、海外諸機関との共同研究など今後の成果に期待できるものもある。然し楼蘭の滅亡についての伊藤の見解は現段階では推測の域を出ない。またカローシュティ文書の取り扱いについては要注意である。この文書はあくまで「2~4世紀の文書」という限界性がある。したがって著者の北方説の否定には疑義が残る。国都問題は南遷説がやや有力ではあるが、結着は持ち越されたというべきである。   ともあれ本論文は、わが国における100年に及ぶ楼蘭研究の全容を要領よくまとめており、とくに巻末の詳細な註記は今後の研究者の手引き、研究の基礎となるものである。また一般読者にもおおいに参考となり有益である。



 







2025年3月30日日曜日

新疆ウイグル自治区の現在

    「新疆ウイグル自治区」熊倉潤 中公新書 2022年

 旧ソ連領の中央アジア(ウズベキスタン、トルクメニスタン、タジキスタン、カザフスタン各共和国)が「西トルキスタン」と呼ばれるのに対し、新疆ウイグル自治区はかつて「東トルキスタン」」と呼ばれらた。然し、この名称は現在中国では禁句になっている。中国内でこの語を使用することは、中国からから分離・独立を求める国家反逆罪とみなされ極めて危険である。なぜ「東トルキスタン」という名称が禁句となったのか。

 中国で「西域」と呼ばれたこの地方にはBC3千年頃からから印欧語族の一派であるトハラ語族の人々が移住してオアシスに住み着いていた。「楼蘭の美女」として知られる白色人種の人々である。そして9世紀モンゴル高原に覇を唱えた東ウイグル可汗国の人々が、キルギスに圧迫されて天山北麓に移り、ウイグル王国を成立させた。ほぼ「西域」を掌握した。このテュルク系の人々がオアシスを支配下に置き、元からの白色人種と混交し、「西域」のテュルク化が進行した。そして10世紀以降イスラム化も進行した。そ結果、以降この地は「東トルキスタン」と呼称されるようになった。

 中国がタリム盆地を直接支配下に置くようになったのは、ようやく清朝の乾隆帝時代の1759年である。然し、圧倒的に多数のウイグルに少数の漢人。中国の新疆統治は容易ではなかった。清は間接統治であったが、後継の中華民国は新疆省を設け統治を強化した。多数派のウイグルは三度の「独立」を試みた。①ヤクブ・ベく政権(1870~77年)、②東トルキスタン・イスラム共和国(1933~34年)、③東トルキスタン共和国(1944~49年)である。然し、大国の思惑に翻弄され、いずれも短命に終わり、挫折した。とくに、東トルキスタン共和国は、第二次世界大戦終了にともなう、ソ連と民国の裏取引(外モンゴル独立の承認と東北部権益の引き換え)により見殺しにされた。そして1949年の中華人民共和国の成立にともない、民国を中共に乗り換えたソ連により「共和国」幹部はソ連領内に連行されたともいう。かくて三度の独立の失敗によって、ウイグルははその独立を半永久的に失うにいたった。とくに「共和国」のイリ蜂起などは否定され「三区革命」と言いかえられた。「共和国」幹部を物理的に抹殺(ソ連の手を借りて)して、唯一のこったサイフジンと結託した「後ろ暗さ」故に「東トルキスタン」の名称やその独立を云々することはタブーとなったのである。

(新疆ウイグル自治区の成立)

 1949年11月人民解放軍第一野戦兵団がウルムチに進軍し、12月新疆人民政府が成立した。中共の統治は当初微温的なものであったが、土地改革の進行とともに強制的なものになった。その第一歩となったのが新疆建設兵団の誕生(1954年10月)と新疆ウイグル自治区の成立(1955年10月)であった。「兵団」の誕生は、大量の漢人の移住となり、新疆の総人口2585万人のうち、漢人は実に1092万人(ウイグルは1162万人)とほぼ拮抗するにいたった(2020年現在)。また「自治区」成立により「民族区域自治」が提唱され、「独立」は明確に否定された。

(中国共産党の異民族統治政策)

 中国の異民族政策は、異民族を排除する「排外」と包み込む「融和」が伝統的に交互に続いてきた。中共は当初コミンテルンの指導を受け民族の独立を容認していたが、政権をとると、ソ連の連邦制を含めて「独立」は否定された。それに代わって「民族区域自治」が打ち出されたのである。新疆統治もその例にもれない。文革後の一時期「融和」の時代(胡耀邦)もあったが、習近平体制の現在は「排外」に大きく舵がきられた。とくにチベットで悪名を轟かせた陳全国が「自治区」の書記に就任(2016~21)すると沸点に達した。監視カメラや顔認証などのAI技術の駆使と「親戚制度}という家庭内の監視の徹底はジョージ・オーエルの世界のようにグロテスクである。更に2017年3月の「自治区脱過激化条例」の制定を契機に「職業技能教育訓練センター」が設けられた。その実態は洗脳と強制労働であり、「現代のラーゲリ」「民族ジェノサイド」であると欧米メディアは非難する。その規模はあまりにも大きいという。一方中国は「事実無根」「内政干渉」とにべもないが、「脱過激化」一定の成果をあげたとして、陳全国を離任(解任ではない)させる。

 著者は中国の新疆政策は、一部には「ジェノサイド」ないし「文化的ジェノサイド」に重なるものもあるが、欧米の非難するような「ジェノサイド」ではないという。「新疆政策」の内容は、①産児制限の厳格化、②「訓練センター」への収容、③綿花畑での綿つみ労働への動員・内地への集団就職、④AI/親戚制度による徹底管理、⑤中国語教育の普及・「中華民族共同体」意識の鋳造である。これはウイグル人を完全に排除するものではなく、「民族」の破壊というより、「民族」の改造を目的にしたものであるという。然し、「中華民族」ないし「共同体」というのは歴史的にもフィクションにしか過ぎないのではないか。

 著者は、欧米メディアの告発、中国側の反論・プロパガンダに与せず、第三者的立場から、本書を書いたという。その冷静な記述には好感がもてる。また巻末の詳細な関連年表、参考文献は「新疆問題」を考える上で非常に有益で、座右に置きたい一冊である。


2025年3月1日土曜日

楼蘭王はどこ居たか

 「楼蘭 幻のオアシス」 王炳華/渡辺剛訳 牧歌舎 2009年


 日本で出版された楼蘭王国史の概説書としては次の4書がある。①「楼蘭王国」長澤和俊(校倉書房1963年、レグルス文庫1970年、徳間文庫1978年)②「楼蘭 流砂に埋もれた王都」A・ヘルマン/松田寿男訳・解説 平凡社(東洋文庫)1963年③「楼蘭王国ロプ・ノール湖畔の四千年」」赤松明彦 中公新書2005年④「楼蘭 幻のオアシス」王炳華/渡辺剛 牧歌舎2009年 ①は最も内容豊富で優れた概説書である。徳間文庫版はその時点での新情報も取り入れ中身も一新しているが、やや古い。②はさらに古い。③は楼蘭人の始原を印欧族の移動・アファナシェヴォ文化に求める学説を紹介している。またカロシュティー文書からはクロライナ王都説は証明できないとするなどユニークである。④は現行、最も新しい概説書である。楼蘭の始原については③より更に詳しい。また1988年日中共同楼蘭探検隊に参加したおりのLA踏査の知見が反映している。

 楼蘭の王都については北方説(王都はLA)、南方説(ミーランもしくはチャルフリク)、南遷説(最初はLA,後にミーラン・チャルフリクに移動)の3説がある。中国では伝統的に楼蘭が漢の属国になった時に国名変更(楼蘭→鄯善)とともに王都も湖北から湖南に移動したと考えられていた。①長澤は北方説で王都は一貫してLAであるとの立場である。②ヘルマン同様、松田も南遷説(LAからチャルフリク)で、更に詳しい「漢書」地理的考証をしている。③赤松は王都は「カロシュティー文書が唯一出土していない場所」ミーランとしている。④は南遷説で、国名変更時にLAからチャルフリクに移動したとしている。それでは楼蘭王はどこに居たのか。

 本書の著者王炳華はLA踏査の知見から前漢時代の王宮はLA内の三間房だとしている。三間房は東西12.5m南北8.5mと小さいが、それは広い敷地(1800平方m)の一部に過ぎない。LA全体(10万8千平方m)の中では大きい部分を占めている。「前77年から、楼蘭は鄯善と名前を変え、扞泥に遷都したからといって、大きな変化があったわけではなかった。(中略)ここは東西交通の重要拠点、孔雀河下流の最も理想的なオアシスとして、最終的に遺棄されるまで大きな変化もなく、変わったのは古城の主だけであった。(本書P99)」魏晋時代の西域長史府は楼蘭王の宮廷を踏襲していたのである。ヘディンやスタインはここで大量の木簡、竹簡、紙文書を発掘したが、1980年新疆考古作業者も62枚の残簡を発掘している。文書紀年は4世紀の40年代のものである。

 長澤は①の段階では、三間房は中国軍進駐以前貴族の館で、王宮は仏塔南の「大きな家」だとしていた。然しLA踏査以降は次のように改めている。「遺跡の現状から見て、まず王宮跡は三間房にあったと見てよいであろう。数は必ずしも多いとは言えないが、ここからカロシュティー文書がが出土しているのは、その一証といえよう。(中略)三間房は現在廃墟と化しているが、これを土台にしてさらにその上に二階があったとすれば、いかにも王宮にふさわしい威容を示したことであろう。(「楼蘭王国史の研究」1996年P194)」魏晋の駐屯軍が進出した結果、西域長史が住むようになった。そして楼蘭王は三間房の北側(スタインのⅤもしくはⅥ)に移住したとしている。

  また王、長澤と共にLAを踏査した伊藤敏雄は三間房西側の大宅院(スタインのⅣ)を前漢時代の王宮と推測している。スタインはここを「土着民の政府」とみなした。ちなみに伊藤は南遷説であり、「大宅院は比較的早期の建築であり、仏塔は相対的に晩期の建築で、(中略)官署は更に遅い建築」(「楼蘭の遺跡」大阪教育大紀要1990年)であるとしている。

 LAは後漢時代以降の遺跡で前漢時代には遡れないと言われていた。然し楼蘭を踏査した3人の論者は前漢時代の王宮は、三間房(王、長澤)、西側の大宅院(伊藤)としている。中国軍の進駐以降はそれぞれの論拠により異なる。これに関して富谷至は興味深い指摘をしている。LAで発掘された漢簡とカロシュティー簡が、同じ木簡を使いながら、書写材料としての使用法に連続性が認められないというのである。そして「中国の行政の在り方が、この地の王国、少なくともカロシュティーを使う民族には受け入れられなかったことを示すものであろう」(「流沙出土の文字資料」京大出版会2001年)として、お互いそれぞれ独自の行政を行っていたと考えている。「この地の王国」とは楼蘭王国である。長澤が主張するように中国の軍司令部(西域長史府)と楼蘭王はLA城内に同居していたのか。LAはかなりの面積(甲子園球場3個分)があるから、それは十分可能である。

2024年1月27日土曜日

楼蘭王国~在りし日の姿

「楼蘭古城にたたずんで」 長澤和俊 朝日新聞社  1989年

 

 本書は、1988年朝日新聞社など日中共同楼蘭探検隊に顧問として同行した著者の記録である。楼蘭、ミーラン、ニヤの3か所の遺跡を踏査した東洋史学者は、1,2の中国人を除けば世界中で著者ただ一人である。楼蘭研究30年、「楼蘭王国」や「楼蘭王国史研究」の著書がある長澤の眼に楼蘭の「在りし日」の姿はどのように映ったのか。楼蘭古城の滞在・見学は10月3,4日の2日間にしか過ぎない。

 楼蘭は「流砂に埋もれた都」と思われているが、実は全く違う。楼蘭古城(LA)は周囲20~30キロを白いヤルダンで囲まれている。LAの位置は中国隊の測量によれば、東経89度55分22秒、北緯40度29分55秒である。そこはロプ湖の北岸から西に約26キロ、孔雀河の南約20キロに位置している。孔雀河の支流の一つはLAの西方6キロの地点で分流しLAの南北を流れ、更に東方16キロで再び合流し、ロプ湖に注いでいる。孔雀河とLAの間には4本の乾河の跡があり、かつては水に恵まれていたと思われる。

 LAはほぼ正方形で、城壁は西壁と北壁は約327メートル、東壁は約333,5メトル、南壁は約329メートルで、総面積は約10万8千240平方メートル(甲子園球場3個分)もある。城壁の幅は基部で5,5メートルから5,9メートルある。城内には西北から東南に流れる水路跡がある。水路は幅16,8メートル、深さ4,5メートルある。この灌漑水路は北側の城壁外の水路もしくは外堀から20センチ角の暗渠(1乃至2~3個)によって、城内に導入され貯水池を経て暗渠で城外に排出されていた。LAは巨大な外堀に囲まれていたと推測される。そして西壁と東壁には城門があり、西壁は甕城になっていた。 古城内の主な遺跡は北東隅にある仏塔、三間房、その北にある大きな家である。仏塔は高さ約10メートルあり、最も目立つ遺跡である。往時は金色に輝いていたかもしれない。その東側には僧房があった。仏塔の南側には立派な木造建築物の建物がある。楼蘭国王の住居、宮殿であろう。三間房は中国駐屯軍の軍司令部、おそらく魏,晋、前涼の西域長史府の跡である。

 LAの周囲はヤルダンに囲まれた不毛の地であるが、その西側の河川敷跡には砂原が所々あり、農耕しようと思えば出来ないことはない。LA西部や北部には、魏晋時代屯田が10か所程度営まれていた。LAには長官の西域長史以下、副長官の司馬、属吏として監察の督郵、綱紀の功曹 、門下の主簿、録事掾などの胥吏がいる。各地の屯田には兵20数名を率いた将が屯田事業に従事していた。屯田の兵士は約300名、文官属吏ら50~60名、護衛兵や、ニヤ遺跡の駐屯員を合わせると楼蘭屯戊の駐屯員は400~500名。そうちLAにいたのは100名足らずで、意外に少ないのである。

 孔雀河の下流域にはBC3800年頃からトハラ語派の人々が住み着いていた。楼蘭(LA)~敦煌間は隊商にとっては17日間行程である。やや長いが、ここから以東には水はなく白龍堆の険路が続く。LAはヤルダン群の真っただ中であるが、北方の遊牧民の襲撃も防ぎ安く、北道にも南道にも通じる要衝であった。BC1500年頃には玉の市場が設けられていた。やがて市場の長は王になった。最初は玉の中継市場に王城が併設されるという簡素のものであった。然しBC2世紀の後半には、西域のオアシスには不釣り合いな巨大城郭都市に成長していた。「史記」大宛伝には「楼蘭・姑師には城郭があり、塩沢に臨むんでいる」と記述されている。東西の交易ルートがここを通るかぎり、楼蘭は永遠の繁栄を約束されていた。





 

2023年10月2日月曜日

楼蘭王国の滅亡

「第5世紀東トルキスタン史に関する一考察」内田吟風 古代学10-11968年


 楼蘭はBC1500年頃、タリム盆地に進出したトハラ語派の人々によって設けられた、玉の取引のための市場であった。それはやがて周囲を土壁で囲む都市になった。市場の長は国王となった。楼蘭王国の成立である。そこはタリム河の末端、ロプ湖に近いあたり、中国(敦煌)に向け隊商が水を得ることが出来る最後の地点であった。東西の貿易ルートが、ここを通るかぎり、楼蘭は永遠の反映を約束されていた。それから千年以上の時が流れたが、トハラ語派の人々はまだこの地に住んでいた。楼蘭は漢(中国)と匈奴の間を振り子のように揺れたが、BC77年漢がこの国を決定的に支配下に置いた。国名を変えて鄯善国とした。「鄯」という漢字はこの時作られた。然し中国の正史(「漢書」西域伝)が雄弁に語る鄯善国が、その終焉まで連綿と続いたのではなかった。

(5王の時代)楼蘭(クロライナ=LA)やニヤで出土したカロシュティー文書は一緒に出土した紀年漢文書から、その歴史的範囲がブラフ教授によってAD236~341年(榎一雄AD256~341年、長澤和俊AD203~288年)にわたることが判明した。そして5人の王(ペーピヤ、タージャカ、アムゴーカ、マヒリ、ヴァスマナ)の存在が明らかになった。これらの王はクシャン朝の王に似た称号「大王、王中の王、偉大にして戦勝者であり、徳篤く正法に住したる国王陛下、天子アムクヴァガ」を持っていた。文書からは、クロライナからニヤに至る広ぼう900キロに及ぶ領域を駅伝で結ぶ楼蘭王国の姿が浮かび上がる。それはプラクリットを公用語とする北インド(クシャン)風の整然たる官僚国家であった。ブラフ教授はアムゴーカ王の17年をAD263年とする新説を発表した(後に榎は283年、長澤は228年に比定)。文書中の称号「ジツーガ」が「侍中」の音訳であり、アムゴーカ王が晋の宗主権を受け入れたため、クシャン風の称号から変わったとする。そこはクシャン朝の植民国家=第二鄯善王国であった。然し晋の西域進出により、この国は以降衰亡の道を歩み始めることになる。内田は、鄯善王国の滅亡が、巷間云われるようなロプ湖の移動など自然環境の変異によるものでないことを力説している。政治的混乱と貿易の途絶が、土地の生産力に比しはるかに多い人口を擁していたオアシス都市国家=鄯善の散滅の最大の原因だとしている。

(滅亡の過程)西北中国に五胡の諸王朝が成立すると鄯善は入朝形式の朝貢貿易を求めた。まず前涼は晋を踏襲しLAに西域長史府を置いた(AD328年 李柏文書)。AD335年前涼(楊宣)の西域遠征に鄯善王元孟は案内を務めた。前秦が優勢になると休密駄は入朝(AD381年)し、「使持節散騎常侍・都督西域諸軍事・寧西将軍」の官職に侍せられた。AD400年インドに求法途上の東晋僧法顕がLAに1か月ほど滞在し、楼蘭最末期の姿を伝えている。河西に北涼が建国すると、AD421年鄯善王比竜は北涼に入朝。北涼は河西全域を支配して、シルクロードを巡る東西貿易の実権を掌握していた。然し華北に北魏朝が成立すると、北涼による中間搾取の存在は好ましいものではなかった。はたせるかなAD439年北魏による北涼遠征が行われた。敗れた北涼王の弟たち(沮渠無諱と安周)は敦煌に逃れ、AD442年安周は鄯善(LA)を攻撃した。比竜は北魏の使者とともにかろうじて北涼軍を撃退、安周は東城に退いた。かつての伊循城である。比竜は安心できず、クロライナの4千余家(人口の半分)を率いて且末城(チェルチン)に逃れた。翌年無諱はクロライナに進駐、安周をローラン王とした。北魏に知られることを恐れ、安周は再び東西交通を遮断した。然しこの計画は北魏の知るところとなり、AD445年大武帝は万度帰を派遣してローラン遠征を敢行した。万度帰はローラン王真達(比竜の子)を捕らえて魏都に連行した。そしてAD448年交趾公の韓牧を鄯善王に任命、クロライナに駐屯させ(北魏の鄯善鎮)、北魏の郡県なみに税を徴収した。これによってひとまず鄯善王国は断絶した。かくして旧鄯善領は北部の鄯善鎮と南部の且末を中心とした地区(まだ比竜が命脈を保っている)に二分された。その後、南部はAD452年吐谷渾に制圧された。また北部は柔然、丁零など遊牧民の徹底的な略奪を受け、住民は四散した。然しLAにはまだ名目的ではあるが、北魏の鄯善鎮は存続していた。AD504,505,517年には白兎などを奉献している。AD542年頃且末王の兄鄴米が衆を率いて内附した。すでにAD542年頃旦末を通過した宋雲はその人口を百余家として、ほぼ散滅寸前の状況であった。そしてAD644年末に玄奘がこの地方を通過した時には人煙は全く途絶していた。




2023年4月5日水曜日

再び楼蘭王国の王都について

「クシャン王朝と漢代西域」小谷仲男 富山大学人文学部紀要17号 1991年

 楼蘭の王都については既に述べたように三説ある。①終始楼蘭古城(LA遺跡)にあったとする北方説。②初めLAにあったが、BC77年の改名時(楼蘭→ 鄯善)にミーラン、チャルクリック方面に移動したとする南遷説。③ミーラン、チャルクリック方面にあったとする南方説。スタインや日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)、中国人学者は②で(旧説)、それ対して榎一雄、長澤和俊が新説として①を提唱した。現在はこれがほぼ定説と考えられていた。然しこの北方説には問題点がある。それはLAが晋時代の軍事拠点ではありえても、漢代に遡れる遺物が全く発見されていないということであった。

(クシャン貨幣の発見)1980年、新疆楼蘭考古隊によってLAからクシャン貨幣が発見された。1988年、発掘調査の概要とともに写真一葉を添えて正式報告された。大きさは、直径2.7センチ、厚さ3ミリ、重さ16.3グラム。その表面図柄は「ラクダに騎乗した人物」とし、裏面は図柄なし。クシャン貨幣だとするが、どの王の発行貨幣とは述べられていない。著者は同様の貨幣をガンダーラ(パキスタン製北部のランガート仏教寺院址)で発掘しており、ヴィマ・カドフィセス銅貨であるとしている。図柄はインドのコブウシによりかかるシヴァ神である。そしてクジュラ・カドフィセス(丘就卻)とヴィマ・カドフィセス(閻膏珍)の活動期はAD25~125年のあいだである。この1枚のクシャン貨幣は発行時期(漢代)にLAにもたらされたか、それとも後代(晋時代)かは不明である。

 ヴィマ・カドフィセス貨幣が発見されたのは、LAの三間房の西南住居址付近である。スタインの遺跡地図によれば、三間房(LAⅡ ⅱ~ⅳ)と住居址(LAⅢ)とのあいだ、南斜面に臨んだ台地上である。三間房から出土した漢文書(600点以上)のうち紀年文書は約50点。年代は三国魏の嘉平4年(AD252)から西晋の永嘉6年(AD312)に及ぶ。あきらかにLAは魏晋時代の西域経営の拠点であり、三間房は西域長史の駐在署であった。スタインは、貨幣が発見された「建物LAⅢ、ⅲの南斜面には、床下90㎝のところから日乾しレンガの壁あるいは基壇(幅1.8m)の一部が顔をのぞかせており、同じ配置でより古い建物が下層に埋まっている可能性がある」(スタイン「セリンディア」)と観察している。

 そして近年LA発掘のクシャン貨幣が漢代にもたらされた可能性を示唆する発掘例が報告されている。①1914年にスタインはLAの東北数キロの墓地でヘレニスティクな「ヘルメスの杖と人頭部」の有名な毛織物を見つけた。1980年に楼蘭考古隊が同じ墓(孤台墓地 MA2と改名)を再調査し、まだ多くの絹・毛織物が堀残されているのを発見、その中に隷書文字を織り込んだ錦断片など、漢代に遡る遺物の存在を指摘している。②1984年新疆ウイグル博物館は、ホータン近辺の洛浦県山晋拉墓地を発掘調査し、スタインが孤台墓地で発掘したものに、遜色ないヘレニスティクなな男性頭部や反人反馬ケンタウルスの姿を意匠とするつづれ織り断片を発見している。報告書は漢代の墓葬としている。

 LAは、そこで発見された漢文書からその当時(魏晋時代)「楼蘭」と呼ばれた場所であることは間違いない。そこが漢代に遡れるか疑問視されていたが、上記の発掘物は疑問を解く重要な証拠である。楼蘭の王都は、そのオアシス隊商都市の性格上、シルクロードのの孔道に沿うことが必須の条件であった。LAこそがその条件に最も適合していたのである。「より古い建物が下層に埋まっている」というスタインの予想が現実になるかもしれないのである。



2022年11月23日水曜日

ティリヤ・テペの黄金遺宝「シルクロードの黄金遺宝~シバルガン王墓発掘記」V,サリアニディ 岩波書店1988年

  本書は1978~9年アフガニスタン北部、古代のシルクロードの要衝であるシバルガンの北東5キロにあるティリヤ・テペの発掘の記録である。ティリヤ・テペは綿畑の中にある直径100メートル、高さ3メートルの平凡な小丘である。発掘は著者サリアニディを隊長とするソ連・アフガニスタン調査隊によって実施された。1971年予備調査、77年から本格調査が再開された。然し79年2月アフガニスタンの政治状況悪化により中断した。6基の古代の墓を発掘したが、その成果は実に驚くべきものであった。
(ティリヤ・テペの遺宝)第1号墓の墓主は25~35歳の女性。出土した黄金細工の大部分は服飾品で他と比べて少ない。第2号墓は30~40歳の女性。あごには細長い黄金薄板のあごあてがつけられている。これは3,4,5,6号墓の墓主も同様である。この女性の黄金服飾品は豪華である。こめかみを飾る一対の黄金垂飾、次いで一対の襟止金具。デザインはイルカに乗った少年。胸元のペンダントは女神アフロディテをかたどる。そして黄金の腕輪一対(重さ507.5グラム)、足輪一対(重さ623,9グラム)。指輪は左手の2個、右手に1個。副葬品として、足元に銀製の鉢と前漢時代の中国製銅鏡。第3号墓は18~25歳の女性。マウンドの頂上付近にあったので、この墓だけ野ネズミに食い荒らされている。黄金の鉢(重さ305グラム)を枕にし、黄金の首輪(重さ765グラム)、腕には一対の腕輪(各290グラム)、指輪3個、靴止留金具と黄金尽くしである。副葬品として中国製銅鏡、銀製鉢がある。さらに貨幣が2枚。パルティア銀貨(ミトリダテス二世、在位BC123~88年)、ローマ・アウレウス金貨(ティペリウス皇帝、AD16~21年に打刻)である。第4号墓の墓主は30歳くらいの男性で身長は2メートルに近い。馬を殉葬させている。圧巻は黄金腰帯(重さ840グラム)である。死者の左側には長い鉄剣と黄金製の短剣鞘、右側には黄金製の短剣鞘があり鉄製の短剣が納られている。インド金貨が1枚見つかっている。第5号墓は15~20歳の女性。6つの墓の中では最も遺物が少ない。黄金製のあごあてや首飾り、足輪(306.7グラム)、副葬品として銀製の鉢がある。第6号墓の墓主は25~30歳の女性。銀製の鉢を枕にして装身具は他の女性より一段と豪華である。頭には高い歩揺金冠(214グラム)、こめかみには一対の黄金垂飾をつけ、襟留金具(一対97.2グラム)、首飾りと胸飾りが3本、手首には黄金腕輪(一対150グラム)、足には足輪(一対243.3グラム)がある。左手には宝石をはめた指輪、右手に儀杖を持つ。副葬品として中国の鏡2面がある。そして貨幣が2枚発見されている。パルティア金貨(フラーティス三世、在位BC70~57年)とパルティア銀貨(フラーティス四世、在位BC38~32年)で、後者は死者の口の中から見つかった。6基の墓から発掘された黄金製品は2万点にのぼる豪勢さである。
(墓葬の王)第3号墓出土ティペリウス皇帝の金貨から墓葬の時期はAD20~30年代と推定される。4号墓の男性は族長クラス(翕候)で他は殉死した婦人たちである。とくに6号墓の女性をサリアニディは「スキタイの女王」と名付けている。彼らの王宮はどこにあったのか。それはティリヤ・テペのすぐ近くにあるエムシ・テペである。墓はすべてエムシ・テペが望める北西部分に集中している。エムシ・テペは北アフガニスタンで十指にはいる首都的中心であった。高い城壁、日干しレンガの上に築かれた内城。支配者は常にここからティリャ・テペの丘にある一族の墓を眺めていたのかもしれない。これが盗掘を免れた根拠でもある。
(五翕候の位置)大月氏が滅ぼしたのは大夏ではなくバクトリアである。大夏(グレコバクトリア王国)はサカ系遊牧民(サラウカエ)によって既に簒奪されていた(BC140年)。
サカラウエを打ち滅ぼしたたのがアシアナイ族のトハラの諸王(大月氏)である(BC139年)。大月氏は征服したバクトリアに五翕候を置いた。すなわち中国に近い東から西に休密翕候(ワハン東部)、雙靡翕候(マストウジ)、貴霜翕候(ワハン西部)、肸頓翕候(バダフシャン)、都密翕候(テルメズ)である。アフガニスタン北東部に偏って位置している。この中から貴霜翕候のカドフィセスが他の四翕候を併呑しクシャン王朝を創建した(AD60年頃)。中国の史書「後漢書」はこれを旧名に因んで大月氏と呼ぶ。ティリャ・テペは、五翕候の中で最も西に位置する翕候より更に西にある。
 著者によれば、五翕候のうち少なくとも二つが、アム河を境界として、西バクトリアに位置していた。そしてここに来住した遊牧民は、二つの異なった人種タイプで示されている。その第一はアム河の北に見られるタイプである。ハルチャンで発見された壁画や塑像の顔は「鼻は大きくなくて、真っ直ぐであり、目はいわゆるモンゴルひだのない中程度の大きさ」で、ユーロオペロイドの勝ったタイプである。すなわちヘラウス貨幣に見えるクシャン王の顔である。第二は南に見られるタイプである。ティリャ・テペの人物像は「モンゴル風にあごひげがない」モンゴロイドが勝ったユーロオペロイドである。第二タイプの遊牧民の名称は分からないが、この地は後世トハリスタンと呼ばれるようになる。サリアニディは「墓葬の王」が、クシャン国家最初の王か、五翕候の一人か特定することは困難だとしている。大月氏という名称が、単一の部族ではなく、互いに親近ではあるが同一でない複数の部族グループを意味しているからである。いずれにしてもそれは、クシャンが勃興し、クシャン朝が成立する直前のことである。




2022年5月16日月曜日

大月氏の五翕候とは 「敦煌懸泉漢簡に記録された大月氏の使者」小谷仲男 史窓72号 2015年

漢代の史料に見える大月氏の五翕候について現地(大夏)の土着勢力か、あるいは大月氏が分封した有力諸侯かという論争がある。これは東洋史上の有名な論である。前者には白鳥庫吉、桑原隲蔵、羽田亨、松田寿男、榎一雄などがいる。後者には江上波男、内田吟風がいる。日本の東洋史学会の主流は前者だが、著者は後者である。「翕候」は諸侯、小君長の意である。大月氏はアムダリアの北側に王庭を置き、征服した大夏の地に5人の翕候を置き統治した。すなわち休密、雙靡、貴霜、肸頓、高附の五翕候である。この翕候の実態を解明するに資する重要な発見が近年あった。 
(「懸泉漢簡」の発見)敦煌の東64キロの「懸泉置」と呼ばれる駅伝遺跡から大量の前漢時代の木簡が発掘された1990~92年)。出土木簡の総数35000本、うち文字の残るもの23000本。紀年木簡は1900本である。その中で大月氏の使者に関する木簡17本の存在が明らかになった。ただし第1簡は 烏孫簡で、実際は16簡である。そのうち最古の第2簡は甘露2年(BC52年)の紀年をもつ。それらの木簡は大月氏の使者が、漢朝への朝貢および帰国の途上、懸泉置において宿舎や食事、交通手段の便宜を供与されたことが記録されている。さらに驚くべきは、大月氏のみならず五翕候から派遣された使者の記載も見えるのである。すなわち第3簡(BC43年)は、大月氏への使者として派遣された柏聖忠が帰国に際し連れてきた雙靡翕候の使者萬若山と副使蘇に対して敦煌太守が発給した公用旅券である。第4簡(BC37年)は、自発的に朝貢目的で敦煌まで来た休密翕候ほか西域諸国の使者に対して、敦煌郡の太守が役人を派遣し、長安まで送迎させるために発給した公用旅券である。かくして大月氏の使者には、大月氏王から派遣された使者と五翕候がそれぞれ独自に派遣した使者の両様があることが分かった。これは「懸泉漢簡」によって初めて知ることが出来る歴史情報である。  翕候の実態はつかみにくいが、遊牧社会における支配体制に関する名称であり、小王に相当するもの(部族集団の長)と考えられる。五翕候を大夏の土着の支配者とする考え方は「漢書」西域伝の読み誤りによる。例えば小竹武夫「漢書」(ちくま文庫)である。 「大月氏本行国也。・・・・皆臣畜之。」でいったん区切らねばならない。ところが小竹訳では、次の文書を「皆臣畜之、共稟漢使者」と続けて読み、「大夏は・・・・いずれもみな臣従して月氏を養い、ともに漢の使者に糧食を供給した」と解釈するのである。然し「共稟漢使者・・・・」から始まる文書こそ、五翕候に関する「漢書」の独自情報なのである。その直前までは「史記」(大宛列伝)の引用である。著者が提案する読み方は「共稟漢使者、有五翕候。一曰休密翕 候・・・・」と続ける。以下五翕候の情報(治所、西域都護・陽関からの里数)が詳細に記される。漢王朝にとって、五翕候への関心は、漢の使者が大月氏に赴くとき、沿道で食料、宿舎、交通手段が確保できるかが問題であり、懸泉置で大月氏の使者たちが接待を受けたように、漢の使者たちが、大月氏王の領内や各翕候の領内で同様の接待が確保される必要があった。このような関係が成立したのは、西域都護の設置(BC59年)、烏孫の帰順(BC52年)以降であり、「漢書」の五翕候情報は以外に遅い時期のものである。  「懸泉漢簡」の解読により五翕候が大月氏に所属することが明らかになっが、それだけで大月氏の五翕候が人種的に大月氏と同一民族とは言い切れない。このことを解決しない限り、大月氏=クシャン人とすることはできない。

2021年8月31日火曜日

関学闘争外伝⑤~経済学部学生運動小史Ⅳ

 69年度の新学期が始まったのは6月30日であった。全共闘は6・9王子集会で24名の逮捕者をだし、13日の上ヶ原キャンパスの封鎖解除により闘争拠点を失うなど、大きな打撃を受けていた。然し組織が雲散霧消したわけではなかった。神大の六甲台に拠点を移し、キャンパス奪回を狙っていた。授業再開の30日、法学部本館(法闘委8時)、第一別館(文闘委10時)を封鎖した。当局は11時40分機動隊を導入した。キャンパスは鉄柵で囲まれており、逃げ遅れた学生5人が逮捕・検挙された。この「戒厳令」状況(校内ヘルメット着用禁止、柵の設置)に新入生の反発は強かった。社会学部1年7組が「我々は6・30の大学側の一方的な機動隊導入に断固抗議する」という学長代行宛ての抗議声明(クラス決議)を出した。これに並行して全共闘は、授業等に介入して新入生に情宣活動を行った。経済学部でも7/7,14のチャペルアワーや授業に介入した。キ反連(キリスト者反戦連合)や経闘委で、いずれもノンヘルである。  参議院での大学立法強行採決(8/3)に抗議して4日8時全共闘は100人で5学部(法・商・経・文・神)を封鎖した。各学部100名ほどの学生が討論に加わった。経済学部でも200人ほどが参加した。その後150名で大阪城公園の「大学立法粉砕・全国全共闘統一行動」に向かった。社闘委はこの日の闘争に参加しなかった。経闘委では,すでにフロントや先鋒隊が消滅し、ブント、ML、中核の数名とべ平連、自主講座などのノンセクトでようやく封鎖部隊を編制していた。また経済学部(森ゼミ)と社会学部(森川ゼミ)の1年生が「大学立法反対」のゼミ決議を呼びかけ、10を超えるゼミ・クラスが賛同した。新入生の闘争組織の萌芽がようやく現れた。一方全共闘は9月の全国全共闘結成と11月決戦に希望をつないでいたが、各党派内で分裂が進行しつうあり、商・神など組織が崩壊、機能不全に陥る闘争委員会もあった。反帝学評は社青同解放派を主軸に社青同国際主義派など加えた緩い組織であったが、革労協結成に向けて解放派左派に純化しつつあった。フロントもブントに追随する左派が「平和共存と構造改革路線」を揚棄し、小集団になった。ブントも社学同関学支部(中間派)と関学反戦(右派)に分裂含みであった。 9月5日全国全共闘連合結成大会が日比谷公園で開催された。全国の大学から3万4千人が結集した。議長山本義隆、副議長秋田明大だが、実態は書記局員の構成(中核派、社学同、社青同解放派、学生インター、ML派、フロント、プロ学同、共学同)に明らかなように8派共闘にほかならなかった。「来るものは拒まず、去るものは追わない」のが全共闘の流儀であった。然し新しく結成された赤軍派は連合ブントにより入場を拒まれた。また革マル派中心の東神大、国学院、ICUの全共闘には招請状すらなく排除されていた。それは8派による11月決戦に向けての全共闘大衆の囲い込みの場であった。関学全共闘も参加したが発言の場はなかった。然しその8派連合は最初から分裂含みであった。赤軍派の陰画である連合ブント(中核派も)は、銃器・爆弾による「前段階武装蜂起」には踏み切れず、「武装蜂起宣伝主義」に陥らざるを得なかった。また反帝学評も小人数のアリバイ的ゲリラ闘争を採用するしかなかった。これは革マル派が多用した戦術である。他派もその中間で右往左往することになる。  10月関西では10-11月闘争に向けて、「全共闘軍団」への参加要請(中核派)や「中電マッセンストと北大阪制圧闘争」(連合ブント)が呼号されていた。関学キャンパスでも各セクトは準備に余念がなかった。10月15日7学部校舎が全共闘100人(神大など支援40人含む)によって封鎖され、16日も法・経・文3学部が全共闘(50人)に封鎖された。いずれも機動隊により即日解除された。封鎖を敢行した反帝学評、フロント、ML派などの部隊は即日上京した。反帝学評は18日首相官邸(7人突入、5人逮捕)、自民党本部(7人全員逮捕)に突入した。ML派は18日東京拘置所(7人全員逮捕)、19日自衛隊市ヶ谷駐屯地(5人逮捕)に突入した。またフロントは21日銀座・築地方面で火炎瓶闘争を敢行した。関学のメンバーもこれに加わり、多くは帰らなかった。残存のブントなど全共闘部隊は「北大阪制圧闘争」に参加した。関学全共闘は組織的にも人的にもほぼ壊滅した。すでに入試闘争以来、逮捕者120名、拘留者91名、起訴71名という甚大な被害を受けていた。さらに事後逮捕が相次いでいた。  そして11月。13日扇町公園で「佐藤訪米阻止全関西総決起集会」が全共闘、反戦、高校生、べ平連それに総評労働者など3万人が結集して開かれた。16-17現地闘争に向けての最後のカンパニア集会のはずであったが、多いに荒れた。機動隊の徹底した検問、弾圧に対し連合ブント・プロ学同は火炎瓶・鉄材攻撃で阻止線を分断したが、この過程で岡山大生糟谷君が虐殺され、63名が重傷を負わされたまま逮捕された。この集会には、関学全共闘の新たな部隊80名が参加した。これは経済学部を中心にした69年度新入生のノンセクト共闘会議が「小寺近代化路線粉砕」などクラス討論を組織して結集した新たな闘う部隊であった。 10-11月闘争で反帝学評がほぼ姿を消し、革マル派(関学全学闘)が1年ぶりに登場した。外人部隊(全学連関西共闘会議)50人を投入して、中央芝生で集会後、学生会館に突入し情宣活動を展開した。そして全共闘不在の学内では、正常化路線の一環として「学長選挙」が着々と進行していた。学長選考規定及び学長辞任請求規定信任(11/8)、第一次学長選挙(11/29)、第二次選挙(12/24)で小寺代行が学長に就任した。これに対しノンセクト共闘会議は、学長選の実施自体が「小寺近代化路線」の内実であることを暴露する情宣活動を経済学部・社会学部で強力に展開した。旧全共闘派はなにおしたのか。彼らは訪米阻止闘争の前日(11/12)に中央協議会を開き、任期切れの全学執行委員会・各学部自治会の任期を来年1月まで延長し、2月初めに選挙を行うとした。然し中央協議会は12/1,9と開催されたが、全執・学部自治会とも理学部以外は代理出席でしかなく、経済学部はそれもなかった(経自は新川委員長が招集権を放棄し辞任)。責任者はすべて10,11月闘争で逮捕、拘留されていた。学院側の中央協議会との了解事項は「全執の1月末までの任期延長は認める。学生自治の問題で学院の関与する問題ではない」、「学生会予算については、全執を通さない限り交付を受けない」(上ヶ原ジャーナル)というものであった。これは実質的に自治会の崩壊状態に学院側が手を貸すものであり、「小寺近代繪路線」の実質を象徴するものであった。この時点で自治会が存在していたのは法、神、理の3学部であった。旧全共闘派はこれに対し、状況を打開するいかなる方針もなかった。  11/16-17佐藤訪米阻止闘争は、各党派軍団による国電蒲田駅周辺のゲリラ闘争に終始した。4/28の限界を乗り越えるいかなる方策もなく1493名の逮捕で幕を閉じた。21日佐藤ーニクソン会談による日米共同声明が発表され、安保堅持ー72年沖縄返還が表明された。12月27日衆議院総選挙が行われ、闘わざる社会党は歴史的大敗北を喫し、1969年は暮れた。(この項続く)

2021年5月31日月曜日

「地球の歩き方 東京2021~22」 ダイヤモンド・ビッグ社 2020年

 「地球の歩き方 東京」の売れ行きが好調だと言う。「歩き方」は1979年にそれぞれアメリカ編、ヨーロッパ編として創刊された。初めて知らない国や都市を訪ねる旅行者のために、客観的な視点で情報を提供するという編集方針はその後も変わらず一貫している。  本書でも「旅の準備と技術」のコーナーは設けられている。例えば「習慣とマナー」では銭湯の入り方が入念に説明されている。あたかも「トルコ」編のハマムの記述を彷彿とさせる。さらに国の登録有形文化財「稲荷湯」や昭和情緒が残る「大黒湯」、壁面に富岳三十六景」が描かれた「荒井湯」など7件の銭湯が紹介される充実ぶりである。また「文豪たちが愛した名店と味」も必見である。森鴎外の「雁」に登場する「伊豆栄 本店」の鰻や、、芥川龍之介が愛した「浅野屋」の天ぷらそば、三島由紀夫が最後の晩餐に選んだ「鳥割烹 末げん」の鳥鍋などが紹介される。見逃せないのは東京に唯一残る路面電車である「東京さくらトラム」(都電荒川線)の案内である。沿線には、昔ながらの商店街や名所旧跡が多い。一日乗車券を使って散策すれば、昭和の下町情緒が甦る。かつて都電は40路線もあったのである。これらを読めば東京はまるで未知の街のような相貌をもって現れてくる。それは明治の初めに禁断の日本を旅したイザベラバードの紀行を読むかのようでもある。  東京に住んでいる人にもそうでない人にも本書は有益である。とくに昨今のコロナ下で不自由な「ステイホーム」を強いられている人々には、本書を読むことはささやかな福音である。

2021年2月11日木曜日

「語り継ぐ1969」 糟谷孝幸50周年プロジェクト(編) 社会評論社 2020年

 1969年11月13日大阪扇町公園において開催された全関西佐藤訪米阻止集会・デモの渦中で岡山大学生の糟谷孝幸が虐殺された。機動隊による暴行の結果翌14日に亡くなった。1967年の10・8羽田闘争の山崎博昭に続く二人目の犠牲者であった。山崎の死は70年闘争の激動の幕開けを告げる死であったが、糟谷のそれは文字通り70年闘争の弔鐘であった。然し糟谷は何故死を強制されねばならなかったのか。その原因は第一には暴行・虐殺の下手人である大阪府警寝屋川署の機動隊員3人(荒木幸男、赤松昭雄、杉山時夫)にある。そして第二には糟谷が当日その隊列に参加したプロ学同就中共労党(共産主義労働者党)の路線転換にある。    (11・3扇町闘争)     「佐藤訪米抗議11・13統一行動」には、沖縄で10万人県民集会、本土では67単産83万名の統一ストが行われた。大阪ではこの日公務員共闘6単産3万9389名、公労協2単産4314名、民間では17単産2万3519名がストで決起した。扇町公園の総評集会は17時と18時の2部に分かれて開催された。一次集会には時限ストを打った全国金属を中心に民間労働者1万5千名、二次集会にはその他の民間労組、官公労など2万名が公園を埋めていた。公園の北側には全共闘、関西地区反戦、べ平連など新左翼7千名が4時から結集していた。この日の集会は16日の現地闘争を控えての前段集会であり一大カンパニアとして実施されるはずであった。「11月決戦」用に編成された中核派などの「全共闘軍団」はすでに現地に向かっていた。然し8派のなかでもブントやプロ学同など一部党派は違った。総評の二次集会のデモ隊が出発し始めた6時30分頃、突如公園内から火炎瓶を機動隊に投げかけるのを契機に、4~500名の反戦や学生が火炎瓶・鉄棒を持って機動隊に突入した。公園南側の扇町線路上は、一時火の海となった。然し圧倒的多数の機動隊は態勢をすぐ立て直し、無差別にデモ隊に襲い掛かり、多数のケガ人、逮捕者がでた。この過程でプロ学同の隊列にいた岡山大生糟谷幸弘が重傷を負い逮捕されたのである。7時過ぎ総評系デモ隊の間に割り込む形で、地区反戦、全共闘部隊がジグザグデモで梅ヶ枝町ー淀屋橋ー肥後橋ー中郵まで行進した。梅田周辺の商店はシャッターを下ろし、機動隊は歩道橋の上で通行人を検問し、戒厳令下のようであった。大阪府警は7000人の機動隊を動員し、警戒は異様に厳しかった。集会参加者に対する私鉄・国鉄駅や公園入口での違法な所持品検査は暴力をともなう執拗なものであった。     (虐殺の真相)     このような暴力的対応は全共闘・反戦のデモ封じ込めにも続いた。扇町公園南西出口を出たデモ隊の進路を塞ぐように6大隊(17、18中隊190名)、8大隊(21,22,23中隊340名)が交差点に配置されていた。機動隊の壁の中を通らねば出発できないのだ。この壁を突破するため、公園内からの火炎瓶投擲を合図に、関西スト実・社学同の200名が投石・火炎瓶で機動隊を急襲した。続いてプロ学同50名が突撃。しかし機動隊の反撃により制圧された。プロ学同の突撃隊はまず火炎瓶を投擲した。当たりは火の海になった。機動隊がひるんで後退したスキに(大盾防御隊形を左防御隊形に移した)、鉄板棒で攻撃した。機動隊は態勢を立て直し(大盾防御隊形)、直ちに増員して反撃。学生達は扇町線を水道局方向に逃げた。それを追撃して、「殺せ!殺せ!」と絶叫しながら警棒と盾を振りかざして殴る、蹴る、突き倒すの暴行を加え、60名余を逮捕した。逮捕を免れた者も40名が重軽傷を負った。糟谷もこの時逮捕された。3人の機動隊員は糟谷のヘルメットをはがし、警棒で左側側頭部に致命的な打撃を加えた。とくに直接の下手人荒木の警棒には糟谷と同じ血液型の血が付着していた。糟谷は頭蓋骨陥没骨折の重傷を負ったまま徒歩で曽根崎署まで連行され、取り調べ中に「黙秘します」とだけ言って倒れた。翌日行岡病院で死亡した。警棒で機動隊の襲撃は後続の関西大学の学生部隊にも加えられた。2名が重傷を負い、その後遺症で苦しみ1年後死亡した。            (共労党の路線転換)   民学同(民主主義学生同盟)は共労党系(構造改革派)と日本の声系(ソ連派)からなる学生組織であった。共労党系は同盟内分派として「民学同左派」を名乗るようになった。構改諸派(フロント、共学同)と「自治会共闘会議」を結成(67年10月)して学生戦線の統一を目指した。その基調は平和共存と反独占であり、民青や「トロ諸派」(三派、革マル)とは一線を画していた。然し68年の激動は構改諸派に左傾を促した。民学同左派も69年3月27日の民学同9回大会で構造改革路線の廃棄を宣言し、翌日プロ学同を結成した。ヘルメットを白から緑に塗り替えた。共労党も「平和共存と反独占民主主義を通じた社会主義革命」を投げ捨て、「現代世界革命派」を自称し(69年5月 3回大会)、最後の新左翼党派になった。ブントの「マッセンストと中央権力闘争」に煽られて、「一周遅れのトップランナー」の揶揄を後目に、11月佐藤訪米阻止闘争を拠点スト(山猫スト)と地域的街頭反乱の大衆的実力闘争(武装闘争)として闘うという方針を打ち出した。それを牽引する「政治的権力奪取の意識性に貫かれた突出集団」=突撃隊の編成が要請された。  糟谷はその突撃隊に「志願」したのである。糟谷のノートには「ぜひ11・13に何か佐藤訪米阻止に向けての起爆剤が必要なのだ。犠牲になれというのか。犠牲ではないのだ。」(11月8日)と記されている。本書を企画刊行した内藤秀之(当時青井秀之)の強いオルグによって二人で扇町に向かった。プロ学同岡大支部は10・21闘争(東京)で逮捕者(5名)があり、救対責任者を除いて同盟員は青井ただ一人だったのである。大言壮語と裏腹に共労党が用意したのは鉄板棒(幅32ミリ、厚さ6ミリ、長さ130センチ)と火炎瓶(栄養ドリンク容器)という貧弱な「武器」である。こんな武装で機動隊の壁を突破できるはずもない。      プロ学同はその後、ヘルメットの色を赤に変えた。その色は糟谷が流した血の色だともいう。共労党は71年に三分解した。左派の赤色戦線と中間派のプロ青同、そして構造改革派に先祖帰りした右派の労働者党である。赤色戦線は間もなく消滅。労働者党も地方の議会政党になった。中間派のプロ青同派が共労党として残った。そして71年9月16日プロ青同とブント(叛旗派)は三里塚東峰十字路の戦闘で機動隊堀田大隊(神奈川県警)の柴田小隊を撃破し3名の機動隊員を殲滅した。78年3月26日には、プロ青同・ブント(戦旗派)・第四インターの赤ヘル三派は成田空港管制塔を占拠して空港開港を阻止した。「春秋」の筆法で言えば、「等価報復」により糟谷ら3名の血債を償わせ、大衆的実力闘争の爆発により11・13扇町闘争の恥を拭いさったのである。 青井は、岡山大医学部を辞め、日本原へ行き、自衛隊との闘いに身を投じた。その過程で地元農民の内藤家の婿養子となり、以後牛飼いの内藤秀之として50年間自衛隊に反対する活動に取り組んでいる。50年間、糟谷の分まで生きてきたのである 一方糟谷を死に至らしめた下手人の三名の警官はどうなったか。彼らは特別公務員暴行陵虐致死で告発された(1969年12月13日)が、76年10月20日大阪高裁は抗告棄却を決定した。同年11月13日時効が成立した。彼らはその責任を他県の機動隊員の死に転嫁し、卑怯にも生き延びた。そればかりか、そのうち一名は2018年秋に危険業務従事者(大阪府警元警部)として叙勲(瑞宝単光章)を受けている。危険業務とは11・13扇町公園警備事案に関するものである。

2020年11月29日日曜日

関学闘争外伝④~経済学部学生運動小史Ⅲ

(6項目闘争の崩壊~小宮院長辞任から6・9王子集会まで)  3月5日の大衆団交を確約した確認書は3月2日の小宮委員長の学長代理辞任(院長辞任は3月3日)で一片の反故となった。それだけでなく大学評議会の全評議員も辞任した。全共闘は交渉すべき相手=「敵」を見失ってしまった。大衆運動のピークは普通は1週間から10日間しか続かない。然し6項目闘争の熱狂は1・24全学集会から1か月も続いている。その原因は2/9~10の5G別館の30時間を超える攻防戦の衝撃的な影響である。5G死守闘争の巨大な成果が闘争の質を転化した(教育闘争から政治闘争)と全共闘指導部は信じたが、そこには陥穽があった。なによりもこの時全共闘の組織力は破断界に直面していた。逮捕者は68人(入試阻止20、5G35、法本館13)にも上っていた。封鎖した建物は多く(守備要員がいる)、当局のロックアウト措置で登校する学生もめっきり減っていた。そして5G死守闘争は、今後全共闘指導部のとるべき闘争方針の幅を極めて狭く拘束していた。  3月全共闘は各学部教授会の追求と卒業試験阻止に忙殺される。法闘委(反帝学評)は法教授会との大衆団交で「昨年の処分を白紙撤回し、今後一切の処分権を放棄する」という自己批判書(25名署名)を勝ち取った。同日理闘委も団交を要求したが、教授会は拒否。10日に理学部校舎を封鎖。13日社会学部の卒業試験が神戸YMCAで実施され、社闘委が抗議デモ。経済学部では。公認自治会が存在する法・理学部とことなり、団交要求もできない。14日卒業試験が大阪予備校で実施される。受験生は中之島公会堂に集合し、教員の案内で内部を通り抜け、淀屋橋から三々五々に地下鉄で難波に向かうというもの。これには経闘委も対応できない。学院当局の新執行部もなかなか決まらない。当局の無能さということもあるが、全共闘に対する目くらましでもあった。それでも19日小寺学長代行がようやく決まる(22日城崎学長代行代理)。そして全学生に「廃校か否か」という半ば恫喝的なアンケートを配布する。これに呼応するよに右翼系の蠢動も活発化する。同日商学部の右翼学生が「学内正常化のため」の学部集会を大阪プール(扇町)で開催する(200名)。22日には革新評議会など右翼、OB,教職員など1200人が「正常化集会」を学内で開催しようとするが、全共闘行動隊(200人)が粉砕。新執行部の「廃校か否か」という恫喝アンケート全学性配布には全共闘指導部は明確に対応できない。いわば全共闘大衆や学生を無方針状態に曝しているのだ。この闘争の敗北過程は「民主的教授会」の自己解体とともに並行的に進んだ。叛旗派の神津陽が言うように、それは全共闘世代を含むその後の大学教員の思想的壁となった。その後教員はいかに大学改革を語ろうと、高邁な学問を教えても、政治的・社会的批判を述べても、この「壁」を乗り越えることなくして説得力を持てなくなった。 経済学部では4月18日新入生のオリエンテーションを実施した。参加した新入生は588名(入学手続きしたのは718名、参加には宣誓書提出が義務付けられた)である。当日9時に大阪城豊国神社(機動隊宿舎前)に集合。経闘委30人が抗議に来るが阻止できない。バス12台に分乗し、市内をカモフラージュのため走行し、この時点では行く先は明らかにされない。奈良県の信貴山千手院に到着したのは11時30分。13時よりオリエンテーションが開始され、当分上ヶ原キヤンパスでの授業再開のメドが立たないため、自宅学習の指示がなされた。終了したのは16時30分。ちなみに他の学部も法学部以外全て実施された。4月17日社会学部(神戸海員会館)、4月30日商学部(関西汽船で洋上)、5月8日文学部(大阪厚生年金会館)、5月9日神学部(大阪・福島教会)、5月16~7日理学部(高野山)。こうして新年度のスタートが既成事実化されていった。全共闘としての一致した方針は定まらない。政治闘争に活路を見出そうとする部分。4・28闘争には東京派遣20名。前段の26集会(神戸・京都)には100名。4月27日の社学外試験(三田市)阻止には50名。  6項目闘争は実質的には終わり、全共闘は6・9王子集会に向けて惰性的に敗北過程を歩んでいた。「廃校か否か」というアンケートと同様、この「改革結集集会」にも全共闘指導部は適格な対応方針を提起できなかった。王子競技場で集会を開催するという学院側の意図は次の二点である。まず第一に学院発祥の地「原田の森」に隣接していること。学院ナショナリズムを煽ってOBなども結集(右翼も含む)できる。第二にスタジアムは構造上の問題。集会参加者はグランドより高い(2米くらい)スダンドに厳重な検問(会場周辺には機動隊1600人)を経て入ることになる。従って集会を物理的に粉砕することは不可能である。この会場選定はOBの公安担当県議が入れ知恵した。全共闘は400人でグランドに突入し抗議の座りこみ。スタンドよりグランドに飛び降り呼応する学生は200人弱。1時50分に退去命令が出され、機動隊がグランドに突入排除にかかった。逃げ場のない学生24名が逮捕された。当日スダンドを埋めた学生、教職員、OB、右翼など9000人。集会は全共闘を締め出したまま、討論なしの提案、協力呼びかけで進行、大勢は拍手での支持という無内容で1時間で終わった。一部から「ナンセンス」のヤジはとんだが動員された右翼の威圧で大勢とはならなかった。会場外に逃れた全共闘は市電筋で群衆1000人とともにバリケードを築き市街戦を演じたが、流れ解散した。全共闘最後の雄姿ではあった。(この項続く)

2020年10月25日日曜日

関学闘争外伝③~経済学部学生運動小史Ⅱ

序曲(1968年)  関学キャンパスの1968年新学期は全共闘指導部9名の逮捕(内1名は誤認逮捕)で始まった。処分を受けた各学部自治会では処分撤回闘争が組まれた。 最も民主的」な法学部教授会は4月17日に7名の停学処分を取り消すと発表した。然し「反動的」な社会学部教授会は5月8日の団交で「被処分者は学生でない」からとメンバーの参加さえ拒否した。被処分者のいない経済学部では民青系執行部が逃亡し自治会は空白のまま改選期を迎えた。革マル系(安長学425票)が反帝学評系(大西敏文274票)を破り、3度目の挑戦で執行部を確立した(5月8日)。然し安長執行部は弱体(委員長・副委員長1名のみ自派で、もう1名の副委員長はフロント、対立候補も執行部入り、革マル・フロント・反帝・の連立執行部)で、6月22日の学生大会は定足数不足で流会。9月20日再度招集したが、未成立で学生集会に切り替え、仮決議をして1週間の掲示期間を経て、規約により執行部として承認された。街頭闘争至上主義の中核派ーブントに対抗する革マルーフロントー反帝学評ブロックという1968年前半の状況の反映である。民青が逃亡した文学部ではフロント系が、商学部では反帝学評系が前執行部の青年インター候補を破り、自治会執行部を掌握した。  7月全学連大会の季節を迎えたが66年末に再建された三派全学連は分裂した。すなわち中核派全学連と反中核派の反帝全学連(ブント、反帝学評、ML派)の誕生である。その反帝全学連もブント(委員長、副委員長など中執16名選出)と反帝・ML(書記長など中執10名選出)が別個に大会を行い分裂必至である。革マル系、民青系、中核系、反帝系と4つの「全学連」が並び立ち、学生運動は党派全学連の時代となった。  再び関学キャンパスに眼を向ければ、11月21日全学執行委員長選挙が行われ反帝学評系(1351票)がフロント系(1164票)、ブント系(620票)を押さえ、執行部を掌握した。フロントの退潮と反帝学評、革マルの伸張が目立った。全執は学院当局に学費値上げなど6項目の公開質問状を出した。(11月22日)これは全共闘の「6項目要求」(12月19日)の基礎になるものである。然しそのさなか法学部を中心とする社青同解放派(反帝学評)と経済学部の革マル派の間で党派闘争が勃発した(12月8~9日)。早稲田大学での文連執行部をめぐる両派の抗争が飛び火したものだが、全執選で主導権を握った解放派が、一挙に革マル派の学外放逐を狙った。8日未明解放派は安長委員長を拉致し自己批判を強要、これに対して全学連関西共闘会議(革マル派)が介入、両者が乱闘(解放派50人、革マル派30人)したが数にまさる解放派が革マル派を学外に放逐した。フロントは両派の抗争は学院当局と右翼に利すると批判したが、学生運動(関学も)は党派によって担われいるのが実態であった。渡辺照全共闘議長は全関西反帝学評議長でもあり、安長経自委員長は全学連関西共闘会議議長であった。14日の経済学部委員総会で安長委員長の罷免が決まった。20~21日に行われた委員長選挙でフロント派の新川俊郎副委員長が当選(190票、総投票数321票))。新執行部は支持率も低く、前執行部よりも更に弱体であった。この中19日には法、文、社の3学部で6項目要求(①43・44連続学費値上げ白紙撤回 ②不当処分白紙撤回 ③機動隊導入、捜査協力自己批判 ④文学部学科制改変白紙撤回 ⑤学生会館の管理運営を学生の手に ⑥以上を大衆団交の場で文書をもって確約し、責任者は引責辞職せよ)の1日ストが打たれた。当局は拒否。23日の全共闘会議(100人参加)で学院本部封鎖が提起されたが支持派(社闘、フロント、ブント、人民先鋒隊)と反対派(反帝学評、ML派)にわかれ結論がでなかった。反帝学評は多数派にかかわらず主導権をとれなかった。革マル派を放逐したが自らのダメージも小さくなかったのだ。このような状況で6項目闘争はスタートするのである。 (6項目闘争ー①ⅤG封鎖から全学封鎖へ)  1月7日未明第5別館が全共闘の一部(社闘、フロント、ブント、先鋒隊30人)によって封鎖された。前日の全共闘会議で反帝、ML派の反対を押し切って封鎖が決行された。経自治会は8日に学生大会(14日)開催、10日に教授会会見(13日)を教授会に要望した。13日に前委員長と引継ぎ事務手続きがとれないとし14日の学生大会延期を申し入れ。そして14日の教授会団交を申し入れるが、差出人が経闘争委員長名になっていることにより受け取りを拒否される。16日に代替えとして教授・学生懇談会(18日)が学部側から提案される。出席者は学生側全執行委員(新川、上坂、吉村、旦野、中村、吉竹、田原)と教授側(豊倉、縄田、橋本、楠瀬、柚木)は学部長、学生部長など。22日に委員総会決議と7つのクラス・ゼミ決議に基づき22日の大衆団交を要求するが、参加メンバーが経闘争委員のみということで拒否される。集会は教授会・自治会の共催、参加は学部生に限る、時間は1時から4時という妥協案で27日の学部集会の開催が決まる。  その間全学の闘争は急展開する。17日全共闘60人(社闘、フロント、ブント、先鋒隊)によって学院本部が封鎖される。18日法学部が無期限ストに入る。24日全学集会(6000人)が開かれるが、全共闘150人で介入、大衆団交に切り替える。当局の無内容さに一般学生も憤激し、2000名の大抗議デモにになる。25日商学部スト権投票に入り、28日無期限スト突入。26日未明社闘30人社会学部封鎖。27日神学部無期限スト突入。  そして27日の経済学部集会。集会は質問者の学部長に対する追求(大衆団交の拒否)で始まり、一旦休息の後議題が学生の処分問題に移ると、突如この場を大衆団交に切り替えようという緊急動議が出され、議場が混乱した。右翼学生に守られて教授達は逃亡。新川委員長は予備折衝で取り交わした確認事項を破棄せざるを得ないとして執行部の解散を声明した。「経済学部の敗北は、全共闘を阻害するものであり、自治会運動の原則を守ってきた我々の運動の限界性を痛感するものである。故に執行部と闘争委員会を解散し、新たな闘う部隊に全権を委任する。従って、今までの闘争委員会の提起した学部投票は委員会総会決議により中止する。昨日の集会を右翼学生に守られて逃亡した教授会を弾劾し、ⅤG(第五別館)封鎖、本部、社封鎖の意義を確認し、経済学部学生がこれを破壊しないよう要請する。全ての学部学生諸君は新たな闘争委員会に結集し、六項目要求の貫徹をめざして闘われんことを要望する。」(1月28日 経済学部自治会執行委員長/闘争委員長 新川俊郎)スト権投票が過半数に及ばなかったのが「解散」の理由とも言われるが、真相は不明。いずれにしろ新川委員長(フロント)が執行部を投げ出したことに変わりはない。「自治会の解散」のみならず「招集権の放棄」までした。28日深夜文学部は全共闘(社闘、フロント、ブント、先鋒隊など300人)が封鎖。そして29日未明経済学部校舎と第3別館が新たに結成された経闘委によって実力封鎖された。かくして理学部を除く6学部が封鎖され、全学封鎖体制が確立し、この日から始まる後期試験はすべて無期延期になった。                   (6項目闘争ー②入試粉砕から大衆団交へ)  1月31日から全共闘と大学当局の間で大衆団交開催をめぐる予備折衝が開始された。然し団交開催の条件に関して折り合えず(交渉は全執であって、全共闘とはしない)2月3日交渉は決裂し6日の団交は流れた。当局の思惑とは裏腹に全共闘はウイングを拡げつつあった。サークル闘争委が結成され、1連協や4連協も広範なノンセクト学生を糾合しつつあった。また他大学(神戸大など)の支援部隊のみならず、西宮反戦や全兵庫地区反戦も支援に駆け付けた。全共闘は、全国私大で初めての入試粉砕闘争を打ち出した。  当局は7日から始まる入試に向けて4日から教職員(一部右翼学生含む)150名体制による入試会場(体育館、高等部、中学部校舎)の泊まり込みを実施した。6日払暁全共闘武装行動隊80名はは右翼学生、教職員が看守する体育館を火炎瓶と投石で攻撃、完全制圧した。逃げ遅れた教職員(学生部長、経済学部事務長など)、右翼学生ら6名を捕虜にし自己批判を要求。院長は5時10分に機動隊導入要請。13時機動隊500人正門前に待機。松田政男講演会を開いていたサークル闘争委の学生ら300人が正門を挟んで機動隊と対峙。14時機動隊が校内に入り試験会場に配置される。全学1連協の学生2000人が徹夜で座り込み、機動隊導入に抗議する。7日経済学部入試が始まる8時30分、全共闘武装行動隊80人が機動隊に突入(7名逮捕)、試験終了直後再び機動隊に激突。8日商学部入試。機動隊の強制解除に備え、5号別館と法本館のバリケードを強化する。   試験会場警備のみという学院当局の要請に反し、兵庫県警機動隊3000人は9日6時30分封鎖解除のため学内に侵入した。全共闘はこれに対決、法本館(反帝学評13人)、5G別館(革自同、ブント、先鋒隊など35人)で死守闘争を展開した。法本館は軍事的には脆弱で9時30分陥落(全員逮捕)。然し5Gのバリケードは固く攻防は熾烈を極めた。翌日11時52分陥落した(全員逮捕)。死守闘争は安田講堂攻防戦より長く、闘いの質も凌駕した。「第二の安田砦」を全国に喧伝した。12日全共闘はこれに抗議し「全関西労学関学奪還総決起集会」を3000人で行い、正門近くの上ヶ原派出所を襲撃した(3名逮捕)。14日の試験終了とともに機動隊はキャンパスから撤収した。15日全共闘は全学再封鎖を敢行、当局は「ロックアウト」を宣告。  当局は第二次収集策動として26日の全学集会を提案した。全共闘は100名の武装行動隊で会場の新グランドを占拠。当日1100人の部隊で全学集会(5000人)を追求集会に変えた。18時30分会場を中央講堂に移し、追及集会を継続。小宮委員長は「闘争弾圧をした」と自己批判書に署名。翌27日も中央講堂で全共闘1000人を含む2000人の学生で「追求集会」を継続し、訳9時間をかけて大衆団交(3月5日 中央講堂)の確認書を勝ち取った。 (この項続く)

2020年9月28日月曜日

関学闘争外伝②~経済学部学生運動小史Ⅰ

 「関西学院経済学部50年史」 関西学院大学経済学部50年史編纂委員会 1984年    「50年史」はその1部6章「大学紛争と改革期」と4部資料「大学紛争関係」を1969年の6項目闘争闘争に割いている。このボリュウムは学部当局のこの闘争に対する衝撃の大きさを現している。然しあらゆる事件や出来事にはかならずその前史や後史がある。6か月に及ぶ全学バリケード封鎖闘争は突如起きたのではない。60年代から70年代初頭の関学経済学部の学生運動の状況を簡潔に素描してみよう。                           (前史①60~65年 安保闘争から日韓条約反対闘争まで)  関学の学生運動は60年安保闘争時、全学連主流派(ブンド)ではなく反主流派(日共系)の全自連の影響下にあった。東京の6・18集会にも14名の代表団を反主流派の集会に派遣している。全自連内の多数派(構造改革派)は8月頃から「平和と社会主義を守る大学戦線」(フロント)を各大学に組織し始めた。関学でも10月26日に25名で関学フロントが結成された。そして10月28日には神戸大住吉寮で100名が参加しフロント兵庫大会が開催されている。この当時のフロントはまだ日共内の「分派」であったが、61年8月の神戸大日共細胞の集団離党をかわきりに、新左翼への道を歩み始めた。61年末には400人(2000名中)の学生党員が離党した。全自連、全学連再建協議会はその幹部が去ったため崩壊状態に陥った。そのため日共は民青同盟員のみでの学生の組織化(62年8月平民学連結成、64年12月「全学連」結成)を与儀なくされた。関学でも文学部を中心にフロントが多数であったが、経済学部は民青の力が強く経済学会(自治会)を掌握していた。  62年10月の兵庫県学連大会では両派の対立は非和解的に激化した。関学でも11・16県学連統一行動に向けての集会が分裂して行われた。全学執行委員会、文自治会、社自治会、法学会、商学会共催の250人参加の集会に対し、経済学会(柏原委員長)は学館ホールでの映画会(30数人)という分裂集会を対置し、別個に県学連集会に参加した。そして遂に学外行動でも分裂は決定的になった。12・14統一行動では全執など多数派は大阪(府学連集会)へ、経済学会は神戸の兵庫安保共闘県民大会にそれぞれ参加した。関学新聞は「13日に行われた戦術会議で『労働者とともに闘おう』とする経済学会と他学会との意見が対立、16日と同様分裂したもの」(「関学新聞」62年12月15日)と論評している。そして翌63年の6・15原潜寄港阻止闘争(神戸)は関西3府県学連3500人が参加(関学250人)したが経済学会は闘争放棄した。「現在の学生運動は分裂主義者、修正主義者によてって指導されており誤ったものだ。6・15闘争は機動隊とのマサツを目的とし、原子力潜水艦寄港反対のデモではない」(「同63年7月15日)11月に成立した経済学会の岩田執行部(民青系)は、準備の立ち遅れを理由に学費値上げ反対闘争に水を差した。スト権投票が2/3に61票満たない(総数849、賛成505、反対331、白票6、無効7)として授業総辞退でお茶を濁した。文、社、法はスト権を確立した。これに対して学部生の不満が噴出し、民青系執行部不信任が決議され(64年6月12日)、解散した(64年9月19日)。経済学会の新執行部(阪野委員長、反民青系)は11・12原潜寄港阻止全関西学生総決起集会(神戸)に結集(3府県学連6000人、関学600人)、12月1日の学生大会で平民学連からの離脱を決議した。日共との対立で前年来崩壊状態であった兵庫県学連が65年9月19日フロント派を中心に再建された(13回大会 小寺山委員長)。然し経済学会の委員長選挙(クラス委員会での間接選挙)ではわずか3票差でフロント系を破り民青系執行部(前田委員長)が誕生した。前田委員長は県学連は認めておらず、統一行動には参加できず「全学連(民青系)」を支持するとした。(65年11月11日委員集会)                                 (前史②66年~68年 薬学部設置反対闘争から43学費闘争まで)  66年篠山の兵庫農業大学跡地をめぐる反対運動が学内で急速に浮上してきた。理事会は跡地払い下げを受けて薬学部設置を検討していた。そんなおり経済学会では9月21,2の両日初めての直接選挙制で委員長選挙の投票が行われた。「大学革新」のフロント系(久松昭一742票)が民青系(小山たけし411票)、革マル系(安長学77票)を抑えて大差で当選した。2次にわたる「父兄会費値上げ・薬学部設置に関する」公聴会(説明会)は物別れに終わった。11月末の全学投票では90.5%が反対していた。全執はただちに全学闘争委員会を組織しストライキ体制を構築した。12月6日社、法学部がストに突入し、文、商、経の3学部もスト権を確立した。当局は7日の理事会で「学生、教授の理解が得られない」として薬学部設置案を撤回した。この当時はまだ学内機構が中央主権化されておらず、各学部教授会も「既存学部充実」で薬学部設置に反対していた。反対闘争は一定の勝利を勝ち取ったが、全学闘の指導方針は問題を残した。「既存学部充実、経営第一主義的教学方針反対」という形でしか闘争をとりくめず、教育総点検運動の次元に矮小化された。闘争(ストライキなど)を圧力手段として、教授層の反対をうながし、当局に譲歩を迫るというものでしかなかった。  一方学外では新三派連合(マル学同中核派、社学同統一派、社青同解放派)に2派(社学同ML派、社青同国際主義派)を加えて、反帝を一致点にした第3の全学連が再建された。(12月17~19日 35大学71自治会代議員・オブザーバー1800人)関学からも法学会が参加した(遠野前委員長は中執に就任)。三派全学連は砂川闘争と取り組みを通じて影響力を全国的に拡大した。然し関学では依然として構改派の影響力が強かった。ただ前年の薬学部闘争の指導力不足から、67年度自治会選挙ではフロント派は苦戦した。とくに経、文では批判票が民青系に流れ敗北した。4月経済学会選では民青系(川尻修520票)が革マル系(安長学305票)を破り当選した。県学連との統一行動拒否し、学内・学外闘争の障害になった。この時点での関学自治会の党派地図は全執(フロント)、社(フロント)、法(社青同解放派)、商(青年インター)、文(民青)、経(民青)であった。  薬学部問題で一旦譲歩した学院当局は中央集権的な常務会を設置し、11月22日に68,69年連続学費値上げを発表した。これに対し学生側は全学共闘会議を結成し、2次の公聴会で大衆団交要求したが、当局は拒否。ただちに法、商、社、文、経の5学部でスト権確立投票を実施した。4学部(文学部では民青系執行部の逃亡を乗り越えて文闘委が主導)はストに突入したが経済学部は違った。投票率53.4%、スト支持率61.9%という法学部に続く多数の指示を得ながら、スト権は批准されなかった。全共闘では、原則として「投票率1/2、支持率1/2でスト権を確立する」として確認がとれていたにもかかわらず、経済学会執行部だけが「多数の支持者がいない限り、ストはできない」と「支持率2/3」に固執し事実上闘争をボイコットしたのである。反対闘争は2000名規模の学生を動員し高揚したが、年明けの試験期とともにストは解除された(商1/17、文1/25、法1/27)。社は教授会の自治会解散命令の恫喝をはねのけ踏ん張ったが、孤立し2/26に解除された。そして学院当局はこの闘争に対して26名の大量処分を発表した(3/26)。全共闘は3/28卒業式に介入し、学院本部を占拠し抗議闘争を展開した。然し右翼系学生との衝突を理由に機動隊が導入され排除された。全共闘は学内ではこの日初めてヘルメット着用で登場した。後日全共闘指導部7名(1名は誤認)が逮捕された。かくして43学費闘争は敗北した。構改派の「大学革新論」はすでに大衆の自然発生性に対応できない「時代遅れ」になっていた。 (この項続く)

2020年7月31日金曜日

楼蘭王国史の展望

     「楼蘭王国史の研究」 長澤和俊 雄山閣出版 1996年

 「楼蘭博士」の異名をとる東西交渉史・内陸アジア史家の長澤和俊早大名誉教授が昨年(2019年)死去した。長澤には多くの一般向け著作があるが、代表作は「シルクロード」と「楼蘭王国」である。前者は「シルクロード~東西文化のかけはし」として1962年に校倉書房より刊行。64年東京オリンピックの聖火がこの地を走るとして人気を呼んだ。この種のものとしては戦後初めてである。1979年大幅に書きまして増補版として同社より刊行。さらに早大での講義ノートをもとに面目一新して「シルクロード」として1993年に講談社学術文庫より刊行。後者は1963年に角川新書で刊行。流麗な記述は評判になった。その後一部加筆してレグルス文庫より刊行(76年)。大幅に改稿加筆して徳間文庫より刊行(86年)。ニヤ遺跡、楼蘭遺跡を踏査したのは史学者として長澤のみであり、決定稿が期待されたがかなわなかった。後者の基礎となったのが本書に収められた論文(26編と雑稿4編、「シルクロード史研究」所収のものを除く)である。
 長澤の楼蘭研究の功績は次の4点である。まず第一に楼蘭王都の位置を終始LAに比定したこと。第二にカロシュティー文書の絶対年代を確定したこと。第三は楼蘭王国の始原を明らかにしたこと。そして第四は「さまよえる湖」ロプノールの実態を解明したことである。
(扞泥城と伊循城)漢書西域伝に「鄯善国、本名楼蘭、王治玗泥城」とある。この扞泥城について、日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)は扞泥城をミーラン、伊循城をチャルフリクと考えてきた(湖南説)。また中国でも伝統的に扞泥城がLA、伊循城がミーランで、鄯善改名時に王都もLAからミーランに南遷したと考えられていた(南遷説)。長澤はカロシュティー文書の検討から楼蘭王都は一貫して扜泥城であり、それはLAであるとした。また伊循城はLA東北方のロプノール北岸の土垠という漢代の砦跡とした。
(カロシュティー文書の絶対年代)文書の相対年代は86年~88年。絶対年代についてブラフ教授は、アムゴーカ王の17年をAD263年にあてる説を提唱した。王の称号の新しいタイトル「ジツーガ」が「侍中」(晋守侍中大都尉奉晋大侯)の音訳に他ならないと考えた。したがって絶対年代はAD236年~321年になる。然し長澤は晋の西域経営は強力なものでなく、魏のそれを受け継いだものに過ぎないとし、鄯善に中国軍が駐屯し強力な統制を加えたのは魏の太和太2年(AD228年)以降とし、この年をアムゴーカ王17年に想定した。絶対年代はAD203年~288(ないし290)年とブラフ説より33年ほど早くなる。
(楼蘭王国の始原)長澤は、BC1500年頃孔雀河最下流部に建設されたホータン玉の交易市場が楼蘭王国の始原と考えた。中国本土では、ホータン玉は殷虚の婦好墓(BC1200年頃)から出土している。また武丁期の卜辞に「征玉」「取玉」という記載がある。玉市場は中国本土に向かう隊商が水を得られる最後の地点に設けられた。それが楼蘭(LA)である。最初は市場と隊商宿だけのささやかオアシスであったが、やがて城郭都市に成長した。長澤は楼蘭王国の始原を東西交渉史の最初の舞台に求めたのである。
(ロプノールーの謎)ロプノールは南北を1500年周期で移動する「さまよえる湖」と考えられ、ヘディンは自らの探検でそれを実証した。然し長澤は古記録の検討などから、北の現ロプ湖(1934年ヘディンが発見したもの、現在は水はない)と南のカラブランは二つに分かれたロプノールの末路だとした。バルハシ湖やガッシュン・ノール・(居延海)など、かつて一つが二つに分かれた例である。
 楼蘭王国は、その起源も滅亡も厚いヴェールに覆われて定かではない。本書に収められた各論考はこれらの謎の解明に挑んでいる。それは「一つの文明の誕生、繁栄、発展、衰退、滅亡を描く」ことで、「楼蘭王国を舞台に、文明衰亡論を試みる」ことであると長澤は述べている。

2020年6月14日日曜日

全共闘世代の終焉

   「続・全共闘白書」 続・全共闘白書編集実行委員会編 情況出版 2019年

 東大安田講堂攻防戦から50年目の昨年末に本書が刊行された。前回の「白書」刊行から25年である。編集後記によれば、前回のアンケート回答者526名にアンケートを送付したところ、半数以上が「宛先人不明」で未着、残りも本人死去などの連絡が多かったという。それでも「友達の輪」で回答者を増やし、枠を広げる(中・高校全共闘)などしてのべ96大学(短大、付属専門学校含む)、22高校、1中学から467名の回答を得た。学校数は前回の86より増えたが回答者数は減った。
 アンケート項目(前回73、今回75)については「白書」と「続」では異動がある。
「白書」にあった「活動家の沈黙」や「子供が学生運動に参加したら」「会社の仕事で倫理に反することをしたか」などは「続」にはない。追加されたものとして「介護が必要になった場合や認知症になった時」、「就活の準備」など深刻のものがある。また「インターネット」、「民主党政権の評価」、「平成天皇の評価」などあり世相の推移を映している。また参加形態として「活動家」(60.1%)、「一般学生」(35.0%)という区分を設けている。なお回答者のプロフィールは以下である。男性89.7%、女性10.3%である。ちなみに当時の大学進学率は65年(男20.7%女4.6%)66年(男18.7%女4.5%)67年(男20.5%女4.9%)68年(男22.0%女5.2%)で、女性は進学率も運動参加率も低かった。
(前回との比較 括弧内は前回)「参加理由」として「自らの信念で」57,2%(51.1%)、「社会正義から」18.4%(22.6%)。「参加したことをどう思うか」には「誇りに思う」69.5%(56.3%)、「懐かしい」12.8%(15.8%)。「あの時代に戻れたらまた参加するか」に「する」67.0%(55.3%)、「わからない」22.0%(21.5%)、「しない」2.2%(4.8%)。「革命・社会変革を信じたか?」に「信じていた」48.7%(35.7%)、「信じていなかった」33.2%(41.4%)。「運動は人生を変えたか」に「変えた」80.3%(69.8%)、「変えなかった」15.9%(16.2%)。「憲法はどうすべきか」には「堅持」66.8%(51.3%)。「日米安保をどうする」は「廃棄」62.6%(58・0%)。老いて確信はますます強まるということか。ただし「自衛隊」については「違憲」68.6%(81.9%)、「合憲」17.7%(4.9%)と微妙に揺れる。
 然しアンケートの送付には叛旗派の神津陽がいうように疑問もある。神津曰く。25年前の白書の時には案内はなかった。今回は来たが、呼びかけ人には山本義隆や秋田明大などの著名人はなく、全共闘時に何をしていたか分からない者もいる。それに党派関係者
が揃っていないとも。明らかに選別にバイアスがかかっている。安田講堂攻防戦と比肩される5号別館死守闘争を闘った関学全共闘関係者が皆無なのも不思議である。関学の項目で収録されている2名は6項目闘争もしらない71年入学生である。掲載のほとんどは横国大全共闘議長(中核派)、関東学院大全共闘議長(マル戦派→赤軍派)など例外はあるが、8派の下部活動家、ノンセクトである。それはかつての戦友会が下士官・兵が大半で少数の下級将校で構成されていたのに似ている。
 もう一つ気になるのが上記アンケート項目の第一回答がすべて増加していることである。老いてますます盛んというより、脳軟化症ならぬ「脳硬化症」に陥いっているのかと危惧される。これは総括作業をせずに日々の生活を送った挙句、かつての自己を美化しようとする欲求がますます強まるからである。全共闘世代はすでに後期高齢者を目前にしている。すでに層としては死滅に瀕しているというべきだろう。

2020年5月14日木曜日

禁書「ウイグル人」を読む

  「ウイグル人」 トルグン・アルマス(東綾子訳) 集広舎 2019年

 トルグン・アスマンの「ウイグル人」の邦訳が刊行された。1989年民主化運動高揚の中で書き続かれ、天安門事件4か月後の10月かろうじて出版された(ウルムチ 新疆青少年出版社)。然し年末には書店から姿を消した。「甘州ウイグル国」の章が駆け足で終わり、予定されていた「ヤルカンドハン国」は書かれなかった。本書はいわばウイグル人の未完の歴史書である。反動化した中国当局は何故本書を禁書にしたのか。それは「中国が古来から統一多民族国家であるという事実や中原の漢族とも経済・文化の相互影響を無視し、ウイグル族の歴史を独立史として描いている」からに他ならない。
 トルグン・アルスマンは1924年カシュガル地区で生まれた。1942年省立師範学校卒業後、カラシャールの小学校校長となるが、国民党政府により2回の逮捕を受ける。
その後自治区文学文芸連合会の編集者を務め創作活動に励むが、70年に共産党政府により逮捕7年間重労働に服す。釈放後「匈奴簡史」、「ウイグル人」、「天山ウイグル国」、「チュルク人」、「ウイグル古代文学」など書いたが、出版後禁止される。軟禁状態が続き2001年死去。
 本書は2010年世界ウイグル会議により再刊されたものの翻訳である。楊海英がいうように「民族自決を目指す歴史書」であるが、その分欠点も目につく。汎ツラン(トルコ)主義にもとづく仮説の部分である。その第一はタリム盆地の原住民に対する認識の誤謬である。トルコ族がタリム盆地に住み着いたのは9世紀半ばのウイグル族のモンゴル高原からの南下(天山ウイグル王国の成立)が嚆矢であり、カラハン朝により加速した。然るに著者は、840年に移住してきたのは20万人の東部ウイグル人で、それより遥かに多い西ウイグル人がタリム盆地に大古より住み着いており、印欧語族の存在を否定する。タリム盆地で発見された大量の古文書はインドの言葉で書かれた仏教経典のみで、印欧語を使用するアーリア人種がこの土地に住んでいたことを証明するものではないとする。然しクチャ(トハラ語B),カラシャール(トハラ語A)、クロライナ(トハラ語C)、ホータン(ホータンサカ語)、カシュガル(ソグド語)では仏典以外多くの世俗文書が出土している。これらオアシスの住民は明らかに印欧語派に属するコーカソイドであることを物語っている。小河墓、古墓溝、鉄板河古墓出土ミイラの風貌もそれを補強している。ただしトルファンの出土文書は仏典のみで、車師族はアルタイ系という説もある(嶋崎昌)。第二はタウガチの語源についてである。匈奴では「服従」「植民地」の意味で中国をタウガチと呼んだとする。匈奴は周の時代山西省北部を占領していたので、中国をタウガチと呼んだという。然し定説では北方民族が中国をタウガチ(タムガチ)と呼称したのは、中国北部に建国した鮮卑系の拓跋氏の北魏(白鳥庫吉)や唐(桑原隲蔵)に由来すると考えられている。
 本書の瑕瑾は上記にとどまらないが、それは著者の汎ツラン主義に起因する。汎ツラン主義19世紀後半に流布したイデオロギーでトルコ系のみならずウラル・アルタイ系民族に対して言語的、文化的、歴史的な共通性を求めようとした。ウラル・アルタイ語族仮説は20世紀には日本や朝鮮まで拡大された。現ウイグル人は840年以降タリム盆地に定住したウイグル族と圧倒的多数のソグド人など印欧語族の混血種である。然し著者はこの結果を原因に帰因させる。例えば古墓溝で発掘されたミイラ(楼蘭の美女)。6412年前(実は3800年前)とされるミイラは明らかにコーカソイドの特徴を示しているが、著者はこれを現在のウイグル人に投影して「8000年前からタリム盆地に住み続けた」祖先であるとする。この本書の瑕瑾の非科学性をあげつらうのは中国的歴史観への無意識の屈伏だと三浦小太郎は解説するが、果たしてそうだろうか。それこそ「中国は古来から統一多民族国家である」という大漢族主義と同列で、それに拝跪するものではないのか。このような瑕瑾について補注などで補足説明されていないのは残念である。また著者は経歴から見れば、「民族共産主義者」として弾圧された東トルキスタン独立運動の系譜に連なると推測されるが、近代・現代の新疆ウイグル人の歴史を書かなかったことが惜しまれる。

2020年3月10日火曜日

関学闘争外伝~「日常生活構造批判」

 「日常生活構造批判」雄叫び4号(別冊)木田拓雄 1968年
                  関西学院大学社会学部学生自治会

 「学費闘争総括への提言」の第2章「日常生活構造批判」(以下「批判」)は関学6項目闘争を牽引した記念碑的文書である。木田はこの「批判」を結集軸にして革命的自立者同盟というノンセクトグループを社会学部闘争委員会内に組織して6項目闘争を闘った。全学執行委員会や法学部、商学部自治会を掌握していた反帝学評(解放派)は、その戦術とは相いれなかった(社闘の5別館封鎖の小ブル急進主義反対)が、心ならずであるが追随するしかなかった。「批判」はまず43学費闘争の社闘委の総括として関学新聞(68年4月15日)に掲載されたのが初出である。従来の学生運動形態を支えている国際情勢分析主義を批判した。何のために闘うかという、闘いと自己の関わり方を明確にしない闘いは、学生のアンガージュえを勝ち取れない。そして情勢が外在的でしかないということを内在的に把握することによって客体を引き寄せる方法の形成こそ「日常生活構造批判」だとした。そして「学費闘争総括のための提言」としてその第1章(知識人論と疎外論)が「雄叫び3号」に、続いて第2章(日常生活構造批判)が「雄叫び4号(別冊)」に掲載された。
 それではこの「批判」はいつ執筆されたのか。論考中には執筆終了は12月16日とあり、4号刊行日は68年12月21日である。また文章中、新聞総部の批判(「シチュアシオン68」関学新聞68年10月31日)に対する再批判があることなどから11月から12月上旬くらいと推測できる。この時期はこと関学キャンパスにおいてもまことに緊迫した状況であった。最後の兵庫県学連大会が2号別館で開催(11月10日)、フロントと反帝学評の対立で運動方針だせず人事案のみで終了。全執選挙で反帝学評系候補が当選(11月21日)、全執による公開質問状提出(12月2日)、反帝学評と革マル派の党派闘争(12月8~9日)、全執大衆団交要求(12月16日)などである。一方全国的には10・21新宿闘争は新左翼ムードの頂点を極めた。東大闘争も11・22には全国から各党派1万人を動員したが、12月に入り民青系との対決で緊迫化していた。
 「批判」は「序説」、第1節「大学の構造的把握」、第2節「家族の構造的把握」の3節からなっている。当初の予定では第3節「国家の構造的把握」や第3章として運動母体の問題などが構想されていたが、それらは書かれなかった。
「序説」は新聞総部による「知識人論」批判への反論である。新総は木田を「吉本の表皮的信仰に陥り」、「マルクスの初期草稿読み」から脱却できないで疎外論をいじくりまわしていると批判している。それに対して木田は、吉本隆明は現在を「相対的安定が国独資として永続化されつうある深刻な過渡期」とし、この状況を「構造改革的に止揚するのではなく、政治的アパシーに存在をもつ大衆を逆に彼らの実在たる生活の領域においこみ、(中略)大衆を自立化させ国家止揚の集中化を企て」ているのであり、「真の大衆へのコミュニケーションの方法を見つけんと」苦しい作業を続けていると反論している。そして自身も「ありのままの学生大衆を追求し、「大衆が耳を傾けるコミュニケーションをこれから見つけてゆく」と。そしてこれが第3章の課題であると。
(大学の構造的把握)本論考のハイライトである。まずフロント派の「大学を反戦、平和、有機的知識人の創出の砦にして、そこから社会の構造的手直しをやる」という「大学革新論」の欺瞞性が論断される。資本と大学の連関は定期的労働人口法則の構造としてある。大学とは商品化した教育サービスを、自己のもとに包摂した教育労働者を使って販売するサービス資本である。この教育サービスは自由な販売が許されものではない。一定の売買契約に基づき、学則(法)に規制される。それ故学生と大学の始原的対立は、教育サービスが商品として売買されざるをえない大学の構造に原因がある。大学は定期的労働人口法則に包摂されていることから、労働力育成をその本質とすべく自己疎外している。故にその教育内容(質)は労働者を育成するための教育となり、教育形態(量)は産業界の労働需要に応ずべく(マスプロ化)規定される。この関係を木田は「知的疎外」という。4年間の「猶予」の後に落ち込む未来的自己(労働過程に入る自己)に自己存在の全集約を行い、この未来的自己に絶対的秩序と尺度を与え、かかる労働過程を肯定的に対象する自己以外は、一切圧殺せんとする。それ故未来的自己を否定せんとする自己存在と、激しい葛藤が生じる。例えば学生運動に身を投じるのは、未来的自己の自己否定となるものとして、抑圧の対象となる。この未来的自己と現在的自己の矛盾と葛藤は個人的な選択や意思などではなく、大学の本質(大卒労働者育成)に起因する。学生は4年間の「猶予」の後、一切の相対的自由をも拒否して、労働過程に入り込むことを与儀なくされる。人は生きるためには資本の存在を肯定的に対象化しなければならない。たとえ幻想的に資本の否定を企てる者も例外ではない。
 「批判」は関学6項目闘争を入試粉砕から2・8~9の5号別館死守闘争の高みにまで導いた。43学費闘争の限界を突破する理論的根拠を全共闘に指し示したといえる。その意味では木田は本望であっただろう。然し、その後の闘争の道標は与えなかった。それは「全国学園闘争の展開の中で、個別関学闘争を突破する方針を提起しえても、全国政治闘争としての方針を提起しえないという限界性」(「関学闘争の記録」)と指摘された通りである。
 今から振り返って「批判」に対する感想を2点述べる。第一は闘争終了後に総括を妨げる否定的要因になったことである。それは東大闘争における「自己否定」が総括作業を妨げる躓きの石となったのに近似している。第二は「批判」には68年当時の関学キャンパスの党派の状況がリアルに描かれていることである。たとえばフロント派。43学費前はフロント、闘争中は無党派もしくは無活動、終了後はまたフロントとある。これは6項目でもくりかえされる。歴史ある関学フロントだが、自治会民主主義の限界を口実に経自会から逃亡したり、メンバーがブントに移たりで消滅寸前。最も党派自体が機関紙を「戦旗」をもじった「先駆」に変え、構造改革路線を投げ捨てたのであるから。かつて兵庫県学連や関学学生運動を牽引した構改派学生運動。その「層としての学生運動」は時代に取り残されていた。木田自身もその周辺から出てきたはずである。「批判」は構造改革派学生運動の廃墟に咲くあだ花である。「批判」3章が未筆で終わったのは著者にとっては幸いであったと言わねばならない。