2020年7月31日金曜日

楼蘭王国史の展望

     「楼蘭王国史の研究」 長澤和俊 雄山閣出版 1996年

 「楼蘭博士」の異名をとる東西交渉史・内陸アジア史家の長澤和俊早大名誉教授が昨年(2019年)死去した。長澤には多くの一般向け著作があるが、代表作は「シルクロード」と「楼蘭王国」である。前者は「シルクロード~東西文化のかけはし」として1962年に校倉書房より刊行。64年東京オリンピックの聖火がこの地を走るとして人気を呼んだ。この種のものとしては戦後初めてである。1979年大幅に書きまして増補版として同社より刊行。さらに早大での講義ノートをもとに面目一新して「シルクロード」として1993年に講談社学術文庫より刊行。後者は1963年に角川新書で刊行。流麗な記述は評判になった。その後一部加筆してレグルス文庫より刊行(76年)。大幅に改稿加筆して徳間文庫より刊行(86年)。ニヤ遺跡、楼蘭遺跡を踏査したのは史学者として長澤のみであり、決定稿が期待されたがかなわなかった。後者の基礎となったのが本書に収められた論文(26編と雑稿4編、「シルクロード史研究」所収のものを除く)である。
 長澤の楼蘭研究の功績は次の4点である。まず第一に楼蘭王都の位置を終始LAに比定したこと。第二にカロシュティー文書の絶対年代を確定したこと。第三は楼蘭王国の始原を明らかにしたこと。そして第四は「さまよえる湖」ロプノールの実態を解明したことである。
(扞泥城と伊循城)漢書西域伝に「鄯善国、本名楼蘭、王治玗泥城」とある。この扞泥城について、日本の東洋史学者(藤田豊八、大谷勝鎮、松田寿男)は扞泥城をミーラン、伊循城をチャルフリクと考えてきた(湖南説)。また中国でも伝統的に扞泥城がLA、伊循城がミーランで、鄯善改名時に王都もLAからミーランに南遷したと考えられていた(南遷説)。長澤はカロシュティー文書の検討から楼蘭王都は一貫して扜泥城であり、それはLAであるとした。また伊循城はLA東北方のロプノール北岸の土垠という漢代の砦跡とした。
(カロシュティー文書の絶対年代)文書の相対年代は86年~88年。絶対年代についてブラフ教授は、アムゴーカ王の17年をAD263年にあてる説を提唱した。王の称号の新しいタイトル「ジツーガ」が「侍中」(晋守侍中大都尉奉晋大侯)の音訳に他ならないと考えた。したがって絶対年代はAD236年~321年になる。然し長澤は晋の西域経営は強力なものでなく、魏のそれを受け継いだものに過ぎないとし、鄯善に中国軍が駐屯し強力な統制を加えたのは魏の太和太2年(AD228年)以降とし、この年をアムゴーカ王17年に想定した。絶対年代はAD203年~288(ないし290)年とブラフ説より33年ほど早くなる。
(楼蘭王国の始原)長澤は、BC1500年頃孔雀河最下流部に建設されたホータン玉の交易市場が楼蘭王国の始原と考えた。中国本土では、ホータン玉は殷虚の婦好墓(BC1200年頃)から出土している。また武丁期の卜辞に「征玉」「取玉」という記載がある。玉市場は中国本土に向かう隊商が水を得られる最後の地点に設けられた。それが楼蘭(LA)である。最初は市場と隊商宿だけのささやかオアシスであったが、やがて城郭都市に成長した。長澤は楼蘭王国の始原を東西交渉史の最初の舞台に求めたのである。
(ロプノールーの謎)ロプノールは南北を1500年周期で移動する「さまよえる湖」と考えられ、ヘディンは自らの探検でそれを実証した。然し長澤は古記録の検討などから、北の現ロプ湖(1934年ヘディンが発見したもの、現在は水はない)と南のカラブランは二つに分かれたロプノールの末路だとした。バルハシ湖やガッシュン・ノール・(居延海)など、かつて一つが二つに分かれた例である。
 楼蘭王国は、その起源も滅亡も厚いヴェールに覆われて定かではない。本書に収められた各論考はこれらの謎の解明に挑んでいる。それは「一つの文明の誕生、繁栄、発展、衰退、滅亡を描く」ことで、「楼蘭王国を舞台に、文明衰亡論を試みる」ことであると長澤は述べている。

2020年6月14日日曜日

全共闘世代の終焉

   「続・全共闘白書」 続・全共闘白書編集実行委員会編 情況出版 2019年

 東大安田講堂攻防戦から50年目の昨年末に本書が刊行された。前回の「白書」刊行から25年である。編集後記によれば、前回のアンケート回答者526名にアンケートを送付したところ、半数以上が「宛先人不明」で未着、残りも本人死去などの連絡が多かったという。それでも「友達の輪」で回答者を増やし、枠を広げる(中・高校全共闘)などしてのべ96大学(短大、付属専門学校含む)、22高校、1中学から467名の回答を得た。学校数は前回の86より増えたが回答者数は減った。
 アンケート項目(前回73、今回75)については「白書」と「続」では異動がある。
「白書」にあった「活動家の沈黙」や「子供が学生運動に参加したら」「会社の仕事で倫理に反することをしたか」などは「続」にはない。追加されたものとして「介護が必要になった場合や認知症になった時」、「就活の準備」など深刻のものがある。また「インターネット」、「民主党政権の評価」、「平成天皇の評価」などあり世相の推移を映している。また参加形態として「活動家」(60.1%)、「一般学生」(35.0%)という区分を設けている。なお回答者のプロフィールは以下である。男性89.7%、女性10.3%である。ちなみに当時の大学進学率は65年(男20.7%女4.6%)66年(男18.7%女4.5%)67年(男20.5%女4.9%)68年(男22.0%女5.2%)で、女性は進学率も運動参加率も低かった。
(前回との比較 括弧内は前回)「参加理由」として「自らの信念で」57,2%(51.1%)、「社会正義から」18.4%(22.6%)。「参加したことをどう思うか」には「誇りに思う」69.5%(56.3%)、「懐かしい」12.8%(15.8%)。「あの時代に戻れたらまた参加するか」に「する」67.0%(55.3%)、「わからない」22.0%(21.5%)、「しない」2.2%(4.8%)。「革命・社会変革を信じたか?」に「信じていた」48.7%(35.7%)、「信じていなかった」33.2%(41.4%)。「運動は人生を変えたか」に「変えた」80.3%(69.8%)、「変えなかった」15.9%(16.2%)。「憲法はどうすべきか」には「堅持」66.8%(51.3%)。「日米安保をどうする」は「廃棄」62.6%(58・0%)。老いて確信はますます強まるということか。ただし「自衛隊」については「違憲」68.6%(81.9%)、「合憲」17.7%(4.9%)と微妙に揺れる。
 然しアンケートの送付には叛旗派の神津陽がいうように疑問もある。神津曰く。25年前の白書の時には案内はなかった。今回は来たが、呼びかけ人には山本義隆や秋田明大などの著名人はなく、全共闘時に何をしていたか分からない者もいる。それに党派関係者
が揃っていないとも。明らかに選別にバイアスがかかっている。安田講堂攻防戦と比肩される5号別館死守闘争を闘った関学全共闘関係者が皆無なのも不思議である。関学の項目で収録されている2名は6項目闘争もしらない71年入学生である。掲載のほとんどは横国大全共闘議長(中核派)、関東学院大全共闘議長(マル戦派→赤軍派)など例外はあるが、8派の下部活動家、ノンセクトである。それはかつての戦友会が下士官・兵が大半で少数の下級将校で構成されていたのに似ている。
 もう一つ気になるのが上記アンケート項目の第一回答がすべて増加していることである。老いてますます盛んというより、脳軟化症ならぬ「脳硬化症」に陥いっているのかと危惧される。これは総括作業をせずに日々の生活を送った挙句、かつての自己を美化しようとする欲求がますます強まるからである。全共闘世代はすでに後期高齢者を目前にしている。すでに層としては死滅に瀕しているというべきだろう。

2020年5月14日木曜日

禁書「ウイグル人」を読む

  「ウイグル人」 トルグン・アルマス(東綾子訳) 集広舎 2019年

 トルグン・アスマンの「ウイグル人」の邦訳が刊行された。1989年民主化運動高揚の中で書き続かれ、天安門事件4か月後の10月かろうじて出版された(ウルムチ 新疆青少年出版社)。然し年末には書店から姿を消した。「甘州ウイグル国」の章が駆け足で終わり、予定されていた「ヤルカンドハン国」は書かれなかった。本書はいわばウイグル人の未完の歴史書である。反動化した中国当局は何故本書を禁書にしたのか。それは「中国が古来から統一多民族国家であるという事実や中原の漢族とも経済・文化の相互影響を無視し、ウイグル族の歴史を独立史として描いている」からに他ならない。
 トルグン・アルスマンは1924年カシュガル地区で生まれた。1942年省立師範学校卒業後、カラシャールの小学校校長となるが、国民党政府により2回の逮捕を受ける。
その後自治区文学文芸連合会の編集者を務め創作活動に励むが、70年に共産党政府により逮捕7年間重労働に服す。釈放後「匈奴簡史」、「ウイグル人」、「天山ウイグル国」、「チュルク人」、「ウイグル古代文学」など書いたが、出版後禁止される。軟禁状態が続き2001年死去。
 本書は2010年世界ウイグル会議により再刊されたものの翻訳である。楊海英がいうように「民族自決を目指す歴史書」であるが、その分欠点も目につく。汎ツラン(トルコ)主義にもとづく仮説の部分である。その第一はタリム盆地の原住民に対する認識の誤謬である。トルコ族がタリム盆地に住み着いたのは9世紀半ばのウイグル族のモンゴル高原からの南下(天山ウイグル王国の成立)が嚆矢であり、カラハン朝により加速した。然るに著者は、840年に移住してきたのは20万人の東部ウイグル人で、それより遥かに多い西ウイグル人がタリム盆地に大古より住み着いており、印欧語族の存在を否定する。タリム盆地で発見された大量の古文書はインドの言葉で書かれた仏教経典のみで、印欧語を使用するアーリア人種がこの土地に住んでいたことを証明するものではないとする。然しクチャ(トハラ語B),カラシャール(トハラ語A)、クロライナ(トハラ語C)、ホータン(ホータンサカ語)、カシュガル(ソグド語)では仏典以外多くの世俗文書が出土している。これらオアシスの住民は明らかに印欧語派に属するコーカソイドであることを物語っている。小河墓、古墓溝、鉄板河古墓出土ミイラの風貌もそれを補強している。ただしトルファンの出土文書は仏典のみで、車師族はアルタイ系という説もある(嶋崎昌)。第二はタウガチの語源についてである。匈奴では「服従」「植民地」の意味で中国をタウガチと呼んだとする。匈奴は周の時代山西省北部を占領していたので、中国をタウガチと呼んだという。然し定説では北方民族が中国をタウガチ(タムガチ)と呼称したのは、中国北部に建国した鮮卑系の拓跋氏の北魏(白鳥庫吉)や唐(桑原隲蔵)に由来すると考えられている。
 本書の瑕瑾は上記にとどまらないが、それは著者の汎ツラン主義に起因する。汎ツラン主義19世紀後半に流布したイデオロギーでトルコ系のみならずウラル・アルタイ系民族に対して言語的、文化的、歴史的な共通性を求めようとした。ウラル・アルタイ語族仮説は20世紀には日本や朝鮮まで拡大された。現ウイグル人は840年以降タリム盆地に定住したウイグル族と圧倒的多数のソグド人など印欧語族の混血種である。然し著者はこの結果を原因に帰因させる。例えば古墓溝で発掘されたミイラ(楼蘭の美女)。6412年前(実は3800年前)とされるミイラは明らかにコーカソイドの特徴を示しているが、著者はこれを現在のウイグル人に投影して「8000年前からタリム盆地に住み続けた」祖先であるとする。この本書の瑕瑾の非科学性をあげつらうのは中国的歴史観への無意識の屈伏だと三浦小太郎は解説するが、果たしてそうだろうか。それこそ「中国は古来から統一多民族国家である」という大漢族主義と同列で、それに拝跪するものではないのか。このような瑕瑾について補注などで補足説明されていないのは残念である。また著者は経歴から見れば、「民族共産主義者」として弾圧された東トルキスタン独立運動の系譜に連なると推測されるが、近代・現代の新疆ウイグル人の歴史を書かなかったことが惜しまれる。

2020年3月10日火曜日

関学闘争外伝~「日常生活構造批判」

 「日常生活構造批判」雄叫び4号(別冊)木田拓雄 1968年
                  関西学院大学社会学部学生自治会

 「学費闘争総括への提言」の第2章「日常生活構造批判」(以下「批判」)は関学6項目闘争を牽引した記念碑的文書である。木田はこの「批判」を結集軸にして革命的自立者同盟というノンセクトグループを社会学部闘争委員会内に組織して6項目闘争を闘った。全学執行委員会や法学部、商学部自治会を掌握していた反帝学評(解放派)は、その戦術とは相いれなかった(社闘の5別館封鎖の小ブル急進主義反対)が、心ならずであるが追随するしかなかった。「批判」はまず43学費闘争の社闘委の総括として関学新聞(68年4月15日)に掲載されたのが初出である。従来の学生運動形態を支えている国際情勢分析主義を批判した。何のために闘うかという、闘いと自己の関わり方を明確にしない闘いは、学生のアンガージュえを勝ち取れない。そして情勢が外在的でしかないということを内在的に把握することによって客体を引き寄せる方法の形成こそ「日常生活構造批判」だとした。そして「学費闘争総括のための提言」としてその第1章(知識人論と疎外論)が「雄叫び3号」に、続いて第2章(日常生活構造批判)が「雄叫び4号(別冊)」に掲載された。
 それではこの「批判」はいつ執筆されたのか。論考中には執筆終了は12月16日とあり、4号刊行日は68年12月21日である。また文章中、新聞総部の批判(「シチュアシオン68」関学新聞68年10月31日)に対する再批判があることなどから11月から12月上旬くらいと推測できる。この時期はこと関学キャンパスにおいてもまことに緊迫した状況であった。最後の兵庫県学連大会が2号別館で開催(11月10日)、フロントと反帝学評の対立で運動方針だせず人事案のみで終了。全執選挙で反帝学評系候補が当選(11月21日)、全執による公開質問状提出(12月2日)、反帝学評と革マル派の党派闘争(12月8~9日)、全執大衆団交要求(12月16日)などである。一方全国的には10・21新宿闘争は新左翼ムードの頂点を極めた。東大闘争も11・22には全国から各党派1万人を動員したが、12月に入り民青系との対決で緊迫化していた。
 「批判」は「序説」、第1節「大学の構造的把握」、第2節「家族の構造的把握」の3節からなっている。当初の予定では第3節「国家の構造的把握」や第3章として運動母体の問題などが構想されていたが、それらは書かれなかった。
「序説」は新聞総部による「知識人論」批判への反論である。新総は木田を「吉本の表皮的信仰に陥り」、「マルクスの初期草稿読み」から脱却できないで疎外論をいじくりまわしていると批判している。それに対して木田は、吉本隆明は現在を「相対的安定が国独資として永続化されつうある深刻な過渡期」とし、この状況を「構造改革的に止揚するのではなく、政治的アパシーに存在をもつ大衆を逆に彼らの実在たる生活の領域においこみ、(中略)大衆を自立化させ国家止揚の集中化を企て」ているのであり、「真の大衆へのコミュニケーションの方法を見つけんと」苦しい作業を続けていると反論している。そして自身も「ありのままの学生大衆を追求し、「大衆が耳を傾けるコミュニケーションをこれから見つけてゆく」と。そしてこれが第3章の課題であると。
(大学の構造的把握)本論考のハイライトである。まずフロント派の「大学を反戦、平和、有機的知識人の創出の砦にして、そこから社会の構造的手直しをやる」という「大学革新論」の欺瞞性が論断される。資本と大学の連関は定期的労働人口法則の構造としてある。大学とは商品化した教育サービスを、自己のもとに包摂した教育労働者を使って販売するサービス資本である。この教育サービスは自由な販売が許されものではない。一定の売買契約に基づき、学則(法)に規制される。それ故学生と大学の始原的対立は、教育サービスが商品として売買されざるをえない大学の構造に原因がある。大学は定期的労働人口法則に包摂されていることから、労働力育成をその本質とすべく自己疎外している。故にその教育内容(質)は労働者を育成するための教育となり、教育形態(量)は産業界の労働需要に応ずべく(マスプロ化)規定される。この関係を木田は「知的疎外」という。4年間の「猶予」の後に落ち込む未来的自己(労働過程に入る自己)に自己存在の全集約を行い、この未来的自己に絶対的秩序と尺度を与え、かかる労働過程を肯定的に対象する自己以外は、一切圧殺せんとする。それ故未来的自己を否定せんとする自己存在と、激しい葛藤が生じる。例えば学生運動に身を投じるのは、未来的自己の自己否定となるものとして、抑圧の対象となる。この未来的自己と現在的自己の矛盾と葛藤は個人的な選択や意思などではなく、大学の本質(大卒労働者育成)に起因する。学生は4年間の「猶予」の後、一切の相対的自由をも拒否して、労働過程に入り込むことを与儀なくされる。人は生きるためには資本の存在を肯定的に対象化しなければならない。たとえ幻想的に資本の否定を企てる者も例外ではない。
 「批判」は関学6項目闘争を入試粉砕から2・8~9の5号別館死守闘争の高みにまで導いた。43学費闘争の限界を突破する理論的根拠を全共闘に指し示したといえる。その意味では木田は本望であっただろう。然し、その後の闘争の道標は与えなかった。それは「全国学園闘争の展開の中で、個別関学闘争を突破する方針を提起しえても、全国政治闘争としての方針を提起しえないという限界性」(「関学闘争の記録」)と指摘された通りである。
 今から振り返って「批判」に対する感想を2点述べる。第一は闘争終了後に総括を妨げる否定的要因になったことである。それは東大闘争における「自己否定」が総括作業を妨げる躓きの石となったのに近似している。第二は「批判」には68年当時の関学キャンパスの党派の状況がリアルに描かれていることである。たとえばフロント派。43学費前はフロント、闘争中は無党派もしくは無活動、終了後はまたフロントとある。これは6項目でもくりかえされる。歴史ある関学フロントだが、自治会民主主義の限界を口実に経自会から逃亡したり、メンバーがブントに移たりで消滅寸前。最も党派自体が機関紙を「戦旗」をもじった「先駆」に変え、構造改革路線を投げ捨てたのであるから。かつて兵庫県学連や関学学生運動を牽引した構改派学生運動。その「層としての学生運動」は時代に取り残されていた。木田自身もその周辺から出てきたはずである。「批判」は構造改革派学生運動の廃墟に咲くあだ花である。「批判」3章が未筆で終わったのは著者にとっては幸いであったと言わねばならない。


2020年1月17日金曜日

玉の道

   「中国玉器発展史㊤」 常素霞 科学出版社東京 2019年

 従来新疆産のホータン玉が中国本土にもたらされたのは、殷の婦好墓(BC1200年頃)出土の玉器が最初と思われていた。然し本書には、それは新石器時代に遡れるという興味深い指摘がある。すなわち臨潼の姜塞仰韶文化遺跡(BC3000~2500年)からホータン玉に似た玉飾が発見されている。ただし玉材の分析が必要である。確実なのは斉家文化期(BC2400~1900年)における玉器の大量の出現である。この頃新疆から中原への輸送ルートが開かれたことを暗示している。
 19世紀末、フランスの鉱物学者ダモーラが中国の玉材は軟玉(透閃石)と硬玉(輝石)に分類できるとしたが、ホータン玉(軟玉)と翡翠(硬玉)だけが本当の中国の玉だと考える学者もいる。今から1万8千年前の旧石器時代後期の遺跡(北京周口店遺跡の山頂の洞窟)から、玉石器材(蛇紋岩、瑪瑙、水晶など)の道具が発見されている。そして新石器時代に入ると、透閃石の玉が出現する。透閃石はホータン玉と同じ鉱物に属するが、同じではない。その産出地は限られる。紅山文化(BC4000~3000年)の玉器は東北の岫岩細玉溝の「河磨玉」である。また艮渚文化(BC3500~3000年)の玉材の供給地は江蘇省の溧陽県小梅嶺村と句容市茅山の2か所である。地元の玉材がほとんどだが、前記のようにホータン玉の可能性のある玉材の出土も指摘されている。斉家文化期(BC2400~1900年)になるとホータン玉で制作した玉器が次第に多く出土するようになった。新疆から中原への玉石輸入ルートがこの時期初めて成立したことを示している。そして殷虚の婦好墓(BC1200年頃)である。755点の大量の玉器が出土しているが、その大半はホータン玉であり、その他河南省の南陽玉、東北の岫岩である。とくに玉羊頭、玉鳥、玉牛の3点は、ホータンの籽玉(しぎょく 河川の水で長年研磨された卵状の玉)である。
 「史記」の記載によれば、先秦時代からすでに「崑崙の玉」が中原にもたらされていたことが知られている。 誰が玉を中国本土に運んだのか。「禺氏の玉」と称されるが、禺氏すなわち月氏である。「漢書」西域伝は「(鄯善)国…は玉を出す」と記すが、楼蘭は玉を産出しない。楼蘭に行けば玉を買うことが出来るという意味である。彼らは直接ホータンから運んだのではなく後に楼蘭と言われた場所から持ち帰ったのである。長澤和俊によれば、BC1500年頃には楼蘭にすでに交易マーケットが建設されていたという。そこは中国本土に向けて砂漠を横断する際の、最後に水を得られるオアシスであった。建設の時期は、斉家文化期出土の例からもう少し遡れる可能性がある。楼蘭は当初は市場と隊商宿だけのささやかなオアシスであったかもしれない。やがて城壁などの防御施設が設けられ城郭都市に成長した。市場の管理者は王になった。この都市の住民は小河墓遺跡のミイラの子孫たちである。彼らはBC3300年頃黒海地方のステップからやってきた印欧語族の一派トカラ語派の人たちである。時間と空間の長い旅路の果てに、彼らが「クロライナ」と呼んだ楼蘭にたどり着いたのである。

2019年12月9日月曜日

「ウイグル人に何が起きているのか」を読む

  「ウイグル人に何が起きているのか」福島香織 PHP新書 2019年

 共同通信は,ICIJ(国際調査報道ジャーナリスト連合)がウイグル族に対する大規模監視システム「一体化統合作戦プラットフォーム」(IJOP)運用の指示を記した中国当局の内部文書入手し、内容を公表したと報道した。(2019年11月25日)中国当局はただちに「フェイクニュース」と否定した。然し人工知能による顔認証など駆使した恐るべき情報収集や民族文化を抹殺する運営方針など、本書が指摘した事実が図らずも立証された。
 苛酷な対ウイグル政策は「泣く子も黙る三大酷吏」陳全国(2016年8月より新疆ウイグル自治区書記、17年政治局委員)によって発案された。陳はチベット族弾圧でその腕を買われ書記に任命された。その内容とは次のようである。①新疆全域に7300か所もの安全検査ステーションを設置、②脱過激化条例の施行(17年4月1日)、③職業技能教育センターの設置(18年秋、これは強制収容所で200万人が収容されている)、④パスポートの回収、⑤社会信用システムのスコア制度実施(基礎点100でウイグル人であるだけで-10ポイント)、⑥所持している携帯に監視アプリのダウンロードの強制、⑦強制健康診断による血液・DNA・虹彩・指紋の採取(すでに3600万人のサンプル収集)何故このような内部文書の内容が明らかにされたのか。まずその背景たるウイグル族の苦難の歴史を知らねばならない。

 (ウイグル族とは)現在中国で55の少数民族の一つであり、新疆には1002万人(2009年自治区政府統計)が居住する「ウイグル族」。彼らはいかなる人達なのか。ウイグルとは彼ら民族の自称であり、日本ではウイグル人やウイグル民族と呼ばれるテュルク系の人々である。その起源はモンゴル高原から南下してきたテュルク系遊牧民族の回鶻と従来からタリム盆地のオアシスに住んでいた印欧語族に属する人々が混血・融和して形成されたものである。10世紀中葉カラハン朝がイスラム教を受け入れたことによりこの地域のイスラム化が進んだ。16世紀頃には盆地のイスラム化が完了し、現在のウイグルに見られる社会や文化が形成された。字義通りの東トルキスタンの成立である。
(東トルキスタンの政治的独立は喪失された)清朝の乾隆帝によるジュンガルとヤルカンドハン国の征服によって1759年には東トルキスタンは清朝の領土となった。新たな境域という意味で「新疆」と名付けられ大清国の版図に組み込まれた。然し清朝の統治は「回部」と呼ばれたタリム盆地のオアシスには少数の軍事力を駐屯させ、民生と徴税には現地人の有力者を官吏として当たらせるという比較的微温的なものであった。各オアシスの駐屯基地は城市の外に設けられ、現地人との接触は避けられていた。
(最初の試み)然し19世紀に入ると清朝の力が衰え、太平天国の混乱が新疆にも飛び火した。回民とムスリムの反乱が新疆全土におよんだ。これに乗じてコーカンドハン国の将軍ヤクブ・ベクが天山以南を征服しムスリム政権を樹立した。漢人から独立して、東トルキスタンにテュルク系ムスリム国家を樹立する最初の試みであったが短命に終わった(1865~77年)。まだ近代的な民族意識に立脚したものではなかった。清の再征服後新疆省が設置された。その統治は、現地の有力者の介在なしには実行することが出来ない脆弱なものであった。そして同化政策の試みが、逆に住民の民族主義的覚醒を促した。
(2次の独立運動)辛亥革命が勃発すると新疆はウルムチ地区の知事楊増新の掌握するところとなった。楊は新疆を中国本土と遮断することに腐心し、あたかも独立王国の観を呈した。後継者の金樹仁や盛世才も同様であった。一定程度の安定を果たしたが、その結果住民の民族的自覚は更に進んだ。彼らは従来民族名を持たず異教徒に対しては「ムスリム」と自称していた。ソ連留学生を中心に、1921年アルマ・アタの会議で、古代の民族名「ウイグル」を自らの民族名にすることを決定した。この民族的高揚を背景に2次の独立運動が起こり、東トルキスタンにテュルク系民族の国家を樹立した。すなわち「東トルキスタン・イスラム共和国」(1933年)と「東トルキスタン共和国」(1944年)である。然しいずれも短命に終わった。前者は英国インド政庁の隠然たる支援はあったが、同じイスラム教徒の回族すら糾合できなかった。後者はソ連赤軍の強力な支援があり1万5千人の民族軍を有し軍事的にも優勢であった。然し大国間の取引(モンゴル独立承認と新疆の引き渡し)により解散を余儀なくされた。1949年中共政権成立後旧共和国幹部は謀略的に抹殺され、民族軍は人民解放軍に編入された。かくして「東トルキスタン共和国」の名は回避され「三区革命」として中国革命の一部とされた。
(中国の植民地に)中共政権は人民解放軍と生産建設兵団(屯田兵)の武力を背景に土地制度の改革(1952年)や、イスラム法廷の廃止などを行い55年10月新疆ウイグル自治区を成立させた。その統治は徹底しており、東トルキスタンは中国の植民地になった。中共は政権獲得前は、領域内の少数民族の自治を認め、中国から独立して国家を樹立する権利を認めていた(1931年瑞金ソビエトの憲法大綱)。然し解放後は「多民族国家の少数民族に自決権は適用されない」と前言を翻した。政治的独立は喪失されたのである。
ウイグル族の独立への模索は続いたがいずれも不発に終わった。東西冷戦崩壊期のカザフやキルギスなどのテュルク系民族国家の誕生は新疆の独立運動を活発化させた。①バリン郷事件(1990年4月)、②グルジャ事件(1997年2月)、③7・5事件(2009年7月)の3大事件である。中国政府ははいずれも東トルキスタン独立運動(ETIM)の引き起こしたとし、テロとの戦いを正当化している。

 その後のETIMが引き起こしたとされる「テロ」事件については本書の記述が詳しいが、それらは国際社会の注目も低く報道されることも少なかった。潮目が変わったのはトランプ政権の対中国政策の変更である。米中貿易戦争の白熱化を焦点とする米中新冷戦構造の深化がウイグル族の「人権侵害」をあぶりだしたのである。ペンス副大統領は「数十万人、もしくは数百万人の規模でイスラム教徒のウイグル族を再教育施設という場所に収容している」(2018年7月20日)と講演で非難した。また同年8月超党派の議員が、陳全国ら7人の中国当局者に対し、米国内の資産凍結や入国制限を求める書簡をポンペイオ国務長官に送った。まさしく「ウイグル問題」は米中新冷戦のカードとなったのである。このような文脈の中で「ウイグル弾圧」を指示する内部文書が公表されたのである。

2019年10月24日木曜日

マルコポーロ写本の謎

  「マルコポーロ/ルスティケッロ『世界の記』~東方見聞録対校訳」 高田英樹訳
                 名古屋大学出版会 2013年

 「東方見聞録」として知られる「世界の記述」には140とも200ともいわれる写本がある。その成立の経緯はマルコポーロの生涯と同様に謎に満ちている。マルコの冒険の情報をもとに、全体の構想を練り、創作も交えて一遍の物語に仕立て上げたのは、ピーサの騎士道物語の作家ルスティケッロであった。この意味で「世界の記述」は二人の共作であった。この書物は世に広く流布したため、イタリア各地の言葉のみならずラテン語やフランス語にも訳され、それゆえ大きく変容することになる。そして多数の写本が作られた。
 それらの写本にもとづくテキストは次の7グループに大別できる。すなわち①フランクーイタリア語版(F)、②フランス語グレゴワール版(FG)、③トスカナ語版(TA)、④
ヴェネット語版(VA),⑤ピピヌスのラテン語版(P),⑥ラテン語セラダ版(Z)、⑦ラムジオのイタリア語版(R)である。これらは内容によって①から⑤のF系のAグループと⑥~⑦のZ系のBグループに大別できる。BにはAにない多数の記事が含まれるが、Aの記事はすべてBに含まれる。Fは内容的には全114章からなりAグループの中では最も完本である。1824年パリ地理学協会が刊行している。Pは写本の中で最も多く残っている。1485年アントワープで刊行され、コロンブスが航海に使用した。Zは1932年デーヴィッド卿によってトレド大聖堂古文書庫で発見されたセラダ手稿。35年印刷、38年出版。Rは1559年ヴェネツィアで出版されたラムージォのイタリア語集成訳。主底本はPで、ギジ写本なども用いられている。
 主要テキストの関係は次のように想定される。原資料としてのO(マルコの話、メモ・ノート類、ルスティケロのもとにあった情報など)。ここから二人によって編まれた第一次祖本(O1)。よりO1に近い第2次祖本(O2)によってZ(ゼラダ写本)やR(P+ギジ写本)が成立した。またやや省略された第2次祖本の異本(O3→O4)からF系の写本が誕生した。1298年ジェノヴァで作成されたオリジナル(O1)にはZやRに伝わるものを含めすべての記事が揃っていた。言語的にはFが最も古いが、転写・翻訳の過程で省略・改変がほどこされていった。
 なお「見聞録」の邦訳には現在入手できるものとして以下のようなものがある。
愛宕松男訳註(東方見聞録1.2 平凡社 1970、71年)ベネディットのイタリア語集成版(フランス語原典fr.1116を基礎にして、他の写本・刊本から記事を補った集成本のイタリア語訳)のリッチによる英訳本からの翻訳。中国史料による註が豊富。
長澤和俊訳(東方見聞録 小学館 1996年)や青木和夫訳(東方見聞録 校倉書房
1960年)もリッチ英訳本からの邦訳である。
月村辰雄・久保田勝一訳(マルコポーロ東方見聞録 岩波書店 2002年)は初期テキストの一つ(中世フランス語fr.2810)から直接日本語訳したもの。
それらに比して本書は代表的テキスト3種(F,R,Z)を全訳し対比した労作で、極めて「学術的価値は高い」(海老原哲男)。マルコは記述する記事の多弁に比し自らの旅程を語ることは極めて少ない。完全対校訳によって中央アジアの旅程(とくにパミール横断ルート)を正確に推測することが可能になった。あわせて写本成立の解明を簡潔に解説したことなど本書の意義といえる。